空襲の子【7】因島空襲と青春群像 終りなき戦争 遺族との出会い

掲載号 06年10月07日号

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青木 忠

 戦後60年を迎えた昨年、わたしは初めて因島空襲の犠牲者のご遺族とお会いすることができた。三庄町八区の宮林積さん(71)である。空襲を受けたわたしの生家から宮林さんのご自宅は1000メートルあまりの距離であろうか、そこにたどりつくために60年もかかったのだ。その出会いを、NHK広島の特集「語り継ぐ空襲」の映像でふりかえってみたい。

 NHK広島は昨年の7月14日、戦後60年特集「語り継ぐ空襲」の最終回に因島空襲を放映した。これは広島市以外の県内の空襲を呉、福山、因島とシリーズで特集したものである。


因島三庄町八区で番組収録を行なうNHKスタッフ

 宮林積さんは当時11歳で自身は防空壕で難を逃れたが、幼い妹二人を空襲で失った。防空壕に向かう途中で避難した家屋が倒壊し、その下敷きになった。インタビューに答えて宮林さんは次のように答えている。

 ―母は命日のたびに「あわてて行かせるんじゃなかった。そうしなければ二人を殺さなくてすんだ」と嘆いていた。遺族には60年も100年も関係ない。命日がくるたびに思い出さねばならない。

 母は、空襲警報が鳴っても防空壕に向かうことを嫌がる幼い娘ふたりを叱り、行かせたことを生涯悔いていたという。命日である7月28日はその母の想いと無関係に毎年訪れてくるのである。わたしは遺族であるという意味の重みを初めて気付かされた。因島三庄町のなかにもまったく正反対の戦後があることを知ったのだ。

 遺族にとってはいまだ戦争は終わっていないのだと思えた。忘れようにも忘れられないのだ。逆に多くの人たちは、忌まわしい戦争の現実をできだけ早く忘れることで、新しい出発を迎えることができた。

 三庄町七区の矢野一夫さん(79)は伯母の秋月柳さんを空襲で失った。軍務を解除され自宅に帰った9月1日、その事実を知らされた。矢野さんは次のように証言している。

 ―伯母は三庄南郵便局の北斜め前でウドン屋を営んでいた。その家の床下を掘り地下壕をつくり、空襲のときわたしの母と一緒に布団をかぶって避難していたところ、爆弾で破壊され吹き上げられた大きな敷石が屋根と床を突き破り、2人を直撃、伯母は即死の状態であったようです。そのことを聞かされ大変無念な想いをしたものです。当時、三庄空襲で20-30人死んだと聞かされましたが、実際には伯母を含めて17、8人であったようです。

 わたしは遺族の方々との出会いを通して三庄空襲でなにがあったのか知ることになった。生まれ故郷で起きた悲しい出来事に身を震わせた。そして同時に、「日立造船のなかはどうだったのだろうか」と痛切に思った。造船所で大きな被害があったことはすでに知ってはいたが、当時のわたしにとっては三庄町のことで精一杯だった。この現状のままでは許されないことは分っていた。土生空襲の実態にどのように迫っていくか、暗中模索の状態をさまよっていた。

(つづく)

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