2011年11月26日 / 最終更新日 : 2018年1月22日 times 井伏鱒二と因島 空襲の子Ⅱ【2】十年間の調査報告 井伏鱒二に出会う(2) 作家・井伏鱒二の作品で「因ノ島」という題名のものが4作あることを調べた人が、地元にいる。年代順に並べてみよう。年月日はいずれも「全集」の「解題」による。 「全集第3巻」に収録されている「因ノ島―瀬戸内の旅―」である。19 […]
2011年11月19日 / 最終更新日 : 2018年1月22日 times 井伏鱒二と因島 空襲の子Ⅱ【1】十年間の調査報告 井伏鱒二に出会う(1) 文豪と呼ばれる作家・井伏鱒二(1898~1993)が因島の三庄町に住んでいたことを知ったのは、いつごろのことだったろう。そのころすでに因島空襲の調査に没頭していた私は、彼が作品のなかで因島の空襲のことを書いていないか、漠 […]
2007年12月29日 / 最終更新日 : 2007年12月29日 times 空襲の子 空襲の子【69】連載終了にあたって 数々の出会い 連載「空襲の子」がいよいよ終了を迎えた。2006年8月28日から2007年12月29日までの1年4カ月にわたった。二部構成になっており、前半が「因島空襲と青春群像―62年目の慰霊祭」、後半が「巻幡家の昭和史―公職追放を […]
2007年12月22日 / 最終更新日 : 2007年12月22日 times 空襲の子 空襲の子【68】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え めざすべき人 巻幡敏夫の足跡を追いながら、彼がめざした究極の目標は、信用組合の結成にあったのではないかと思った。昭和27年~43年初代理事長、43年~46年理事、46年から人生最後まで顧問を務めた。
2007年12月15日 / 最終更新日 : 2007年12月15日 times 空襲の子 空襲の子【67】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 因島信用組合の創立 巻幡は公職追放解除後、因島信用組合創立に心血を注いだ。昭和27年6月10日、初代理事長に就任し、同43年まで務めた。昭和40年には、全国中小企業団体総連合佐藤栄作名誉総裁から功労彰を授与されている。
2007年12月8日 / 最終更新日 : 2007年12月8日 times 空襲の子 空襲の子【66】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(下) 初の因島市長選の結果が出た。 当選 安松延二 7864 次点 宮地 弘 7445 巻幡敏夫 5369
2007年12月1日 / 最終更新日 : 2015年8月10日 times 空襲の子 空襲の子【65】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(中) 因島市誕生の時期は国政・市長・市議と選挙が連続した。4月29日衆議院選挙をかわきりに5月17日因島市長選、5月20日市議選とつづいた。いずれも激しい選挙戦になった。衆議院選は吉田茂首相の「バカヤロー解散」を受けたものであ […]
2007年11月24日 / 最終更新日 : 2007年11月24日 times 空襲の子 空襲の子【64】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(上) 時代は、第二次大戦の復興をほぼ終え、昭和の大合併へと向かっていた。因島は昭和28年5月1日、土生町、三庄町、田熊町、中庄村、大浜村、重井村、東生口村の7町村が合併して、市政を施行した。 この合併の話は昭和26年になる […]
2007年11月17日 / 最終更新日 : 2015年6月5日 times 空襲の子 空襲の子【63】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 友人・池田勇人(下) 関西テレビ放送名誉顧問の巻幡展男は常務取締役時代の1988年に、池田勇人と父敏夫との交友について、エッセイ「冬日可愛」のなかでふれている。ご本人の了解をいただき、紹介させていただく。 テレビの世界に入って30年になります […]
2007年11月10日 / 最終更新日 : 2007年11月10日 times 空襲の子 空襲の子【62】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 友人・池田勇人(上) 第58~60代内閣総理大臣・池田勇人(1899~1965)=写真=と巻幡敏夫は生涯を通じての友人であった。旧制忠海中学校で机を並べて以来、将来東京で会おうと、誓い合う仲となった。しかし、その二人の夢は叶わなかった。東京 […]
2007年11月3日 / 最終更新日 : 2007年11月3日 times 空襲の子 空襲の子【61】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 家族それぞれの苦悩 二女恵美子さんに単刀直入にお尋ねした。「お父さんは、本当に軍国主義者でしたか。わたしには、どうしてもそうとは思えないのですが」との問いに、「そうではありません」と、明快な答が返ってきた。 筆者は、巻幡敏夫との面識は一 […]
2007年10月27日 / 最終更新日 : 2007年10月27日 times 空襲の子 空襲の子【60】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 巻幡敏夫に追放処分(下) 巻幡家に連合軍総司令部(GHQ)の取調官が乗り込んできた。巻幡が忠実に公職追放に服しているかの調査であったのであろう。この場合の公職とは単に官職だけではなく、占領軍が指定した、影響力のある政党・企業・団体・報道機関など […]
2007年10月20日 / 最終更新日 : 2015年8月10日 times 空襲の子 空襲の子【59】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 巻幡敏夫に追放処分(中) 巻幡敏夫が公職追放処分を受けた昭和22年1月ころ因島は、連合軍総司令部にとって特別な地域であった。日立造船因島工場が約1万人の働く軍需工場であったこと、因島と向島に連合軍捕虜収容所があり、日立造船の両工場で捕虜が強制労働 […]
2007年10月13日 / 最終更新日 : 2007年10月13日 times 空襲の子 空襲の子【58】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 巻幡敏夫に追放処分(上) ついに巻幡敏夫に公職追放処分が発令されるときがきた。昭和22年のことである。公職追放が解除される昭和26年6月20日まで、巻幡は連合軍総司令部(GHQ)の厳重な監視下に置かれ、一切の生活の糧を奪われた。 巻幡自身が昭 […]
2007年10月6日 / 最終更新日 : 2007年10月6日 times 空襲の子 空襲の子【57】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 日本人意識の解体 占領期において進められたのは、「軍国主義の排除」の名の下での日本人意識の解体であった。追放の嵐が吹き荒れるなかで、文化面における統制も強められた。例えば映画においてはアメリカ映画がどんどん公開される一方、時代劇が解禁に […]
2007年9月29日 / 最終更新日 : 2007年9月29日 times 空襲の子 空襲の子【56】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 吹き荒れる追放の嵐 昭和21年の年明け早々、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放の嵐が吹き荒れることになった。ポツダム宣言第六項の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除する」方針をもとに1月4日、日本政府に対して「軍国主義 […]
2007年9月1日 / 最終更新日 : 2015年6月10日 times 空襲の子 空襲の子【52】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 敗戦そして占領 わたしは敗戦を生後およそ10カ月で迎えた。したがって米空軍の空襲によって死にかけたことや敗戦について実感がまったくない。しかし世界史的な事件である敗戦を直視することなくして一歩も前に進めない。実感がないところで考え、書き […]
2007年8月11日 / 最終更新日 : 2007年8月11日 times 空襲の子 空襲の子【49】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 総力戦と大政翼賛会(中) 「広島県戦災史」は、「戦時体制の確立」のまとめで次のような結論を導いている。
2007年8月4日 / 最終更新日 : 2007年8月4日 times 空襲の子 空襲の子【48】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 総力戦と大政翼賛会(上) 戦後日本は、「大政翼賛会」を「民主主義」の対立概念として教えたが、その内容とその歴史的役割の検証を真剣にしようとはしなかった。筆者自身も例外ではなく、せいぜい大政翼賛会=独裁、独裁=悪ぐらいの理解のレベルであった。しか […]
2007年7月28日 / 最終更新日 : 2007年7月28日 times 空襲の子 空襲の子【47】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 戦犯と公職追放 戦犯(戦争犯罪人)と公職追放が混同されている傾向がみられる。確かに関係は強いが、両者は全く異なるものである。「戦後史大辞典」(三省堂)をよりどころに戦犯について見てみよう。戦犯にはA級戦犯とBC級戦犯がある。
2007年7月14日 / 最終更新日 : 2007年7月14日 times 空襲の子 空襲の子【45】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて はじめに ある「紳士録」に故巻幡敏夫氏とその家族について次のように記されている。 巻幡敏夫 正七位勲六等 因島信用組合 備南特定郵便局長会各顧問 広島地方裁判所因島調停協会会長 因島市文化財保護委員 広島県出身 因島市在住 明治 […]
2007年7月7日 / 最終更新日 : 2007年7月7日 times 空襲の子 空襲の子【44】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 韓国領事との面会 因島空襲犠牲者慰霊祭まで1カ月をきった7月2日、わたしは駐広島大韓民国総領事館に金辰植領事を訪ねた。空襲で朝鮮半島出身者が亡くなったことについて説明するためであった。
2007年6月23日 / 最終更新日 : 2007年6月23日 times 空襲の子 空襲の子【41】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 九死に一生得た巻幡展男さん(下) 姉の恵美子さんからお電話をいただいたことに勇気づけられて弟の巻幡展男さんに直接お会いしたいと思った。ご自宅にお電話したところ、「関西テレビにおいでよ」ということになった。「会社の受付でどのように言えばよろしいですか」と […]
2007年6月16日 / 最終更新日 : 2007年6月16日 times 空襲の子 空襲の子【40】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 九死に一生得た巻幡展男さん(中) 前号で紹介した対談のなかで巻幡展男さんは、生死を分けた原爆病との闘いについて何も語っていない。ただ、「まあ、それから、暫らくの間は、近所のお寺で、原爆の落ちた広島の状況を説明していたもんだよ」としか話していない。そのこ […]
2007年6月9日 / 最終更新日 : 2022年9月3日 times 因島土生町 空襲の子【39】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 九死に一生得た巻幡展男さん 上 今年の2月下旬のことであった。家内が電話口でやり取りをしているのが聞こえた。どうも相手の方がお名前をおっしゃらなかったようで、「それでは困りますから教えてください」とくり返している。「土生の巻幡です」とのご返事をようやく […]
2007年6月2日 / 最終更新日 : 2007年6月2日 times 空襲の子 空襲の子【39】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 助言者からの電話 連載をつづけていくうえで、専門的な知識をもった方からの助言ほどありがたいものはない。船舶についても何回か、助言をいただいた。前々号で「伊33号潜水艦の悲劇」についてふれたところ、その方からお電話をいただいた。いつもわた […]
2007年5月26日 / 最終更新日 : 2007年5月26日 times 空襲の子 空襲の子【38】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 日立造船社史と新証言 昭和31年に発行された「日立造船株式会社七十五年史」は、同社の戦災状況全般を述べるなかで因島工場への空襲について次のように記している。
2007年5月19日 / 最終更新日 : 2007年5月19日 times 空襲の子 空襲の子【37】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(完) 先日、因島空襲の犠牲になった楠見高行さんが経営していた鉄工所の跡地=写真=に行ってみた。因島三庄町3区の北郵便局付近である。現在は駐車場になっている。その場に立ち、三庄町という町の深部には、あの戦争の現実が決して風化す […]
2007年5月12日 / 最終更新日 : 2007年5月12日 times 空襲の子 空襲の子【36】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(下) 楠見四兄弟の長兄である高行さんは昭和20年7月28日、米軍の空襲によって日立造船因島工場で亡くなった。避難した簡易防空壕を爆弾が直撃。同じ職場の仲間とともに崩れた土砂に押しつぶされて死んだ。砂に埋もれた仲間をみんなはス […]
2007年5月5日 / 最終更新日 : 2007年5月5日 times 空襲の子 空襲の子【35】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(中) 日本郵船社員の佃慶三郎の話はつづく。 ―父の戦死の知らせとほとんど同時に男児が誕生した事の奇しき因縁について、町では暫く話題となっていたといわれる。母堂に続いて、祖母、次兄も挨拶に顔を見せたが、だれもが佃を困らせるよう […]