「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【37】第六章 最後の旅路

5月26日の野原さんのメールの一文は私を驚かせた。私が書こうとしていた内容が、先んじて提示されていたからである。

滞っていた物事が突然動き出すことがあります。沖縄と関わったことも、その一つでしょうか。

野原さんの問いかけに、しばらく時間をあけて連載21の一文で次のように答えた。

人生の始まりにおいて私は、学童疎開で私の家のとなりに沖縄から引っ越してきた仲宗根家の母子六人とともに同じ爆弾の攻撃をうけた。六人は即死し、私は生き残った。

この体験が私の覚醒と無関係と言えようか。「赤子の空襲体験」が大学生になった私の内面で突然、動き出したとは考えられないだろうか。

しかし、この内容では野原さんへの返答として不十分である。「沖縄に関わったこと」が心底において劇的に動き出したのは、私が政治活動を引退し、島に帰ってきてからである。

私は20年間を越す破防法裁判の終了とともに沖縄との関係を意識的に断ち切った。政治活動を引退した私には沖縄に関わる資格がないと思い込んだのである。そして沖縄を忘れて日々の生活を送ろうとした。

そうした日常を根底から覆したのが、仲宗根一家の悲劇である。その事実は、沈滞する私の内面を切り裂き、再生させた。そして、私らしい「沖縄との関わり」を蘇らせたのである。仲宗根一家の死に目をつむることなくこだわりきることで、生まれ故郷の歴史のなかに、「私の沖縄」を探そうとした。

決して長くはないだろう人生の旅路の方向を見出せたようだ。私のすぐそばで死んだ仲宗根一家とともに生きていくのだ。

7月に入るや野原さんから「今月は慰霊祭ですね」とのメールがきた。あの日から七〇年をどのように迎えるか。悩みながら目標を設定できた。因島の地元で調べられうる全ての仲宗根さんの足跡をつかみとることだ。

時間という動かしがたい壁の前で仲宗根さんの調査は、困難を極めていた。私が依拠している聞き取り作業は、当時小学生だった世代を対象としている。したがって証言の幅と深さが限られてしまう。

そのころ成人だった世代は生きていないか、話を聞ける状態ではないだろう。仮に話を聞けたとしてもその人たちが、どれだけ仲宗根さんのことに関心を持っていたか疑問である。

公的な資料は全く残っていないことが判明した。役場、警察、消防など記録に残したかさえ疑わしい。小学校の在校生名簿に期待したが存在しなかった。とっくに処分されたに違いない。学童疎開児童の名簿は作成されたはずだろうに。こうして仲宗根さんのことは記録から抹消され、記憶にしか残っていないのである。

私は70年という節目にしかできない調査をやりとげようと決心した。わずかな事実を探り当て、それをもとに何をイメージするかである。

70年目の7月28日は、家族全員が集まろうと決めた。娘も息子も東京で働いている。ふたりとも快く同意してくれた。「父親があの時に死んでいたら自分たちは現在、この世にいない」という理解だったようだ。

娘には慰霊行事の司会をやってもらおう、息子には沖縄からのメッセージを読んでもらおう。

(青木忠)

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