米軍の激しい空襲によって因島三庄町で死んだ沖縄の家族

第二次大戦が終了して来年で70年になる。実父である松本隆雄の私物を整理していると、「昭和九年夏 家のこと 松本」の表題の小さなノートが出てきた。

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米潜水艦に撃沈された対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)


その裏表紙に、「爆撃 昭和廿年七月二十八日 午前十時二十分頃」と赤鉛筆で記してある。これは、因島三庄町が米軍の激しい空爆にさらされた証である。

多数の民間の犠牲者が出た場所がある。1個の爆弾が隣接する3軒の民家を直撃した。3階建ての「かきの屋」、山崎理髪店、私の生家の松本家である。3軒とも全壊したが、とりわけ無惨であったのは、3家族が入居していた「かきの屋」である。

最上階には、沖縄から疎開してきていた仲宗根一家が住んでいた。外出していたお婆さんを除いて、子供たちは全員死亡した。その数は6人あるいは7人と言われているが、11人という記憶の人もいる。

私はその真相をつかもうと、因島の行政や寺院、沖縄県庁、沖縄の報道機関などに問い合わせたが、一片の情報も得ることができなかった。

私は調査を諦めかけた。全くと言ってもよいほど手がかりがなかったからである。しかし、どうしても諦めきれずに、祈るような想いで那覇市の対馬丸記念館に電話を入れた。

対馬丸記念館と連携した調査を

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沖縄県那覇市の対馬丸記念館

昭和19年8月22日午後10時12分ころ、学童疎開の児童らを乗せ、九州に向かっていた対馬丸は、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した。「沖縄戦最大の悲劇」と言われている。乗船者らは1788人(2005年7月27日現在)。犠牲者は、2012年8月22日までに氏名が判明しただけでも1482人にのぼる。その大部分が疎開者で学童780人、訓導・世話人30人、一般疎開627人、さらに船員24人、船舶砲兵隊員21人。

私の電話を受けた、記念館職員の野原淳子さんが早速、「公式ガイドブック」など書籍資料を郵送してくれた。野原さんに何度かの質問をしながら、それらを夢中になって読んだ。

因島空襲で亡くなった沖縄の学童たちと、対馬丸の撃沈で犠牲になった学童たちが一体であることに気付いた。切迫する沖縄戦という時代背景と戦局のなかで子供たちは本土に向かったたのである。

事件直後、箝口(かんこう)令が敷かれ、対馬丸の調査は困難を極め、今なおつづいている。この活動に連携して、遠く因島三庄町で死んだ沖縄の学童の実像を追い求める活動を継続していこうと決意を新たにした。

(青木忠)

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