ふるさとの史跡をたずねて【195】廻国供養塔(因島田熊町浄土寺)

廻国供養塔(因島田熊町浄土寺)

次は因島田熊町の廻国供養塔を訪ねる。浄土寺の鐘楼付近である。鐘楼の隣に六地蔵があり、さらに一段高くなって墓地がある。左端に岡野氏の先祖碑がある。その前あたりに松ぼっくりをお供えしたツングリ地蔵さんがある。その隣だ。苔むした石碑の文字は読みにくいが中央の梵字の下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國為」と読める。その左右に「天下大平」「国土安全」などの文字がある。かつては「正徳五年」と読めたそうである。右にあるツングリ地蔵は久保田喜兵衛という人のことで享保六年に建てられている。西暦では1715年と1721年だから、同一人物のものだと思う。ただし、廻国供養塔が墓地にあるのは珍しいので、おそらく別のところにあったものを子孫の方がここに移したのではないかと考えられる。

キリスト教が成立する以前の揺籃期を「原始キリスト教」の時代と言い、それはまだキリスト教ではない。しかし、「原始仏教」というのは釈迦の時代のことであるから仏教そのものである。「原始仏教」で、出家するのも功徳があるが、その人達を援助することも功徳があると言った。そういう訳で富裕者が精舎などを寄進した。これが布施であり、お接待などもその延長である。全国六十六ケ寺へ法華経を奉納する六十六部の行者のことを略して六部(りくぶ)行者というが、同じ考え方で、六部行者を支援する人がたくさんがいた。廻国供養塔を建てるにも同様な寄付が集まった。しかし実際には廻国供養をしないのに六部行者だと言って金品を要求する人が増えたので、明治四年に明治政府は廻国供養を禁止した。以後、この制度は復活していない。だから廻国供養塔というのは、極めて江戸時代的な建造物である。もちろん廻国供養の制度は江戸時代以前からあったが、流行するのは江戸時代以降である。

六十六部の廻国供養塔が地域の文化財として記録され、また大切に保存されているところは多い。場所としては、私見に過ぎないがお寺の境内が多い。また、島四国などのお堂の中というのが生口島の2番にあったし、向島にもあった。そして、路傍にあるものもあるが、これは道路改修等で移動させられる。

(写真・文 柏原林造)

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