因島にて… つかみかけた確信【27】

横須賀の丘で
 私は6月4日、神奈川県横須賀市観音崎の丘にいた。そこは大きな公園になっており、東京湾に面したところに私のめざす「戦没船員の碑」があった。眼下には浦賀水道、房総半島、遠くには太平洋の水平線が望まれた。碑には、「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれていた。


 この日、碑の前で、第40回目の戦没・殉職船員追悼式が行なわれた。太平洋戦争で戦死した船員は6万609人とされている。7月28日の因島空襲において、判明しただけでも4隻の船舶が攻撃され、船員15人が死亡した。私は、同じ空襲の被害者として、また空襲調査にかかわっている者として碑に手を合わせ、献花した。
 この間、因島田熊町在住の中村公巳氏の調査、財団法人・日本殉職船員顕彰会や神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」の助言により、因島空襲において、日立造船因島工場入りしていた船舶と船員の被害の実態がうきぼりになった。四隻の船舶とは、光隆丸、大玄丸、日寅丸、SB艇(上陸用舟艇)である。
 光隆丸 川南工業(長崎県深堀)で竣工(大光商船)。880G/T型の戦時標準貨物船。7月28日、特設敷設艦に編入後、日立造船因島工場で空爆を受けかく坐。戦死者ゼロ。
 大玄丸 三菱重工業(若松)で竣工(大同海運)。880G/T型戦時標準貨物船(光隆丸と同型)。7月28日、日立造船因島工場で空襲を受け、大破。戦死12人(船員)。因島での死亡日、7月28日11人、同29日1人。昭和24年、光隆丸と大玄丸を浮上させ、光隆丸の後部と大玄丸の前部を接合させ、大玄丸として再生。
 日寅丸 3513G/T。貨物船。戦利品。日産汽船が運航。7月28日、日立造船因島工場で空爆炎上、かく坐。戦死3人(船員)。前年の8月12日、台湾・基隆(キールン)で1人死亡。
 SB艇 機動1135 870トン。陸軍省。昭和19年10月大阪造船所で竣工。
 追悼式は、全国から遺族・関係者ら750人が出席し、海上自衛隊横須賀音楽隊の前奏がなされるなか始まった。主催は、財団法人・日本殉職船員顕彰会。第40回戦没・殉職船員追悼式の式次第は次の通りである。
開式の辞
国歌斉唱
黙とう
会長式辞
内閣総理大臣追悼の辞
天皇皇后両陛下ご供花
代表献花
全員献花
閉会の辞
 式終了後、会場を観音崎京急ホテルに移して、懇親会が開かれた。私の追悼式出席は、ふたつの目的があった。ひとつは言うまでもなく、犠牲者の追悼である。もうひとつは、因島空襲の犠牲になった大玄丸、日寅丸の船員の遺族との出会いであった。
 式場、懇親会とも、ご遺族は胸に船舶名の入った名札をつけていた。私はその名札を懸命に目で追った。しかし、関係する船舶名を見つけることはできなかった。こうした機会は、8月にもう一度めぐってくる。戦時徴用船遭難の記録画展である。
 昨年は鹿児島市であり、延べ1200人が参加した。今年は8月24日から31日までの8日間、下関市の下関市民会館で開催される。犠牲者に関する情報を求めて、ご遺族や関係者が会場を訪れるのである。私も、かすかな可能性を信じて参加しようと考えている。そもそも因島空襲の調査とは、そのようなものであった。

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