父のアルバム【3】第一章 まさかの発見

何年前からのことだろうか、生母の写真を探し始めたのは。彼女の写真を一枚も持っていない私は、長姉や叔母に頼んで譲ってもらった。遺影とは異なる映像で母の様々な表情を知りたかったのである。

ところが、一瞬にしてあっけなく、大量の生母の写真を手にすることができた。実は事前に長姉から、「おかあちゃんのアルバムは絶対あるよ。以前に私見たもん」と励まされた。不思議なものだ。一番欲しがった者のところに幸運がもたらされるのだろう。

それはともかく、生母の写真に興味津々であった。見つかった2冊のアルバムの写真のほとんどが女学校時代のものである。時代を反映してか成人してからのそれは少ない。

2冊とも写真が丁寧に整理されて貼り付けられている。インクのペンで一枚一枚に説明もつけられている。片方の最初のページに、おそらく教室でのひとコマであろうが、机に向う彼女の姿を写したものがある。その右側にペン字で「十四才 松本清子」と書き込まれ、さらに写真上に氏名を記した、流暢なローマ字筆記体が見てとれる。それに少女清子の聡明さを感じた。

母の女学校時代に家族全員で撮影した写真がある。両親と妹との四人のものである。母は長女である。言うまでもなく両親とは私の祖父母のことである。

祖母の写真は感慨深い。幼いころに死別した彼女の面影を私は思い出せない。私は長きにわたって生母とともに祖母の姿を追い求めてきた。目鼻立ちのはっきりした綺麗な女性に思えた。写真のなかの祖父が若々しい。船乗りで、機関長だったという。

祖父のアルバムは大正・明治にさかのぼる。そこにある写真は初めて見るものばかりである。船上での船員たちとの記念写真、実家の福島の家族・親族写真。祖父にとっては義母、私にとっては曾祖母の写真まであった。祖父にまつわる古い話が蘇ってくる。

養母のアルバムもあった。これは養母の死後、父が大型アルバム2冊にまとめたものである。実に心のこもった見事なものだ。そのなかにある説明書きに、ふたりの再婚は昭和25年10月3日とある。

父は養母の人生を写真で綴りたかったのであろう。山形県鶴岡市にある実家の両親の写真。初婚時代の写真。大阪鉄工所因島工場時代。所長にまでなった保育所勤務。退職後から死ぬまでの父との日々などである。

こうして私は、他界した家族の面々に邂逅することになった。思えばここまで来るのに随分遠回りしたものだ。これも自分らしい歩み方なのだろう。こうしたことで何かが生まれないかと思案する日々が始まった。

生母のアルバムにあった家族写真。左が彼女である。おそらく女学校の制服姿であろう。

生母のアルバムにあった家族写真。左が彼女である。おそらく女学校の制服姿であろう。

(青木忠)

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