時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【16】秀甫の運命(その5)

 秀策急死による本因坊跡目候補は、自他ともに認めていた秀甫にとっては面白くない。14歳の秀悦のあとに、26歳の自分の出番がやってくるとは思えない。しかし、子供の時から目をかけて育てられた師家への恩義を考えれば出奔するというほどのものであったか疑問が残る。


 秀悦が跡目に決まった文久3年以後の動向をさぐってみると、十四世本因坊秀和は、秀甫を七段に昇進させようとした。跡目候補からはずした秀甫への配慮からだろう。
 これに対し、十三世井上因碩が異を称えた。因碩も六段だったので、秀甫との「争碁」を願い出た。2人は七段をかけて争碁を打った。結果は秀甫3連勝で、跡目問題の1年後の元治元年(1864)七段に進んだ。
 当時の七段は、名人、凖名人に次ぐ「上手」の位で、上様上覧の御城碁に跡目相続人とともに出仕できる資格を得たわけであるが、実際には文久2年から幕末の混乱期のため事実上廃止され、秀甫にその機会がなかった。
明治維新前後の棋界
 七段になったばかりの正月26日、秀甫は本因坊跡目の秀悦四段と対局した棋譜が残っている。翌元治2年には、師の本因坊秀和との対局が2局ある。慶応3年は徳川幕府終焉の年であるが、正月井上因碩宅で秀甫は伊藤松和七段とペアを組んで坂口仙得七段・小林鉄次郎四段組と連碁を打っている。このとき秀和とも対局しているので、師弟が仲直りしたという説を掲げる見方もあるが、決別したという証明ができないのでは仲直りもない。
 明治になって、戊辰(ぼしん)戦争が始まった元年から、函館の五稜郭の戦いが終る2年までは秀甫の棋譜はみつかっていない。国中が大騒ぎで、特に江戸は碁どころでなかった。
 文久元年7月、秀甫が駿河の杉山清一にあてた手紙(幕末の囲碁研究会参照)によると「世間が騒がしく、このごろ碁を休んでいる」と書き送っている。明治維新前後は多くの棋士が江戸を去っており、秀甫も戦火を避けていたと思われる。
 明治3年、秀甫は東京・根岸の里に囲碁の教場を開いた。秀和の門下関源吉が、そこに通ったと著書「侵分と劫」の中で書いている。同4年になると、秀甫の棋譜がにわかに増えている。しかも、この年の10月から12月にかけて秀甫は秀和に随行して関西方面を遊行、翌5年には秀栄とも美濃、尾張、伊勢、大阪方面へ出かけている。
 こうみてくると、秀甫が跡目争いから本因坊家を飛び出したという話は作り話であったと思われる。そして秀甫は後に十八世本因坊になったとき部屋中を踊り狂ったという。
(庚午一生)

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