ふたりの時代【1】青木昌彦名誉教授への返信

プロローグ―祭の日の申し入れ
 青木昌彦という名を聞いたのは、何十年ぶりのことだっただろうか。私の住む因島椋浦町にある艮神社の秋の大祭でのことだった。町の複数の有力者から「青木昌彦について調べてくれんか」と、突然申し込まれた。その日は、違った意味で気分が妙に高ぶり、神輿を担いでいるときも食事のときも、その話に終始した。


 「日経新聞の『私の履歴書』に青木昌彦という有名な経済学者が、自分の祖母は村上水軍の末裔で、因島の生まれと書いとる。それは椋浦出身に違いない。金は出せんが、調べてくれんか」。私は日経新聞の読者ではない。「私の履歴書」を読んでいない私には不意打ちであった。
 そのうえ合点がいかないのは、私より村上水軍について詳しい人は大勢いる。私は、郷土史にほとんど関心がない。それなのに何故、やがてうなずけた。「60年安保闘争のときの全学連幹部だったらしい」と説明があったからだ。ああそうか、町の人には手に負えないということなのか。やはりそうだろうなと思い、町のためになるのならと納得した。
 しかし、面識があるわけではない。確かに私も学生運動を指導し、全学連運動の責任者であったことは事実であるが、時代も違い、私は70年安保闘争である。やがて、町の日経新聞読者から連載のコピーが提供された。抜けている部分は、図書館でコピーした。
 青木昌彦氏は、2007年10月6日の『私の履歴書』【6】で次のように記している。
 ―父方の祖母は、「日本最大の海賊」とか「大海原を制したサムライ」といわれた村上水軍の末裔だ。日本中世の瀬戸内海を制した村上水軍が拠点にしていた因島で生まれた。その祖母の父、つまり私の曽祖父は船頭だった。海上交通の治安管理でもしていたのか。勝海舟が近代的な日本海軍を創設する際協力したそうだ。その父の遭難で孤児になった祖母は、ある財閥の大番頭の女中として引き取られ、東京へ移った。
 なるほど祖母は因島出身であると明言している。因島椋浦町(現在は尾道市である)は青木姓が多い町であるから青木昌彦氏の祖先が椋浦生まれであると指摘しても当然であると思った。
 ところが、そのことの数倍も私の目を引き付けたのは、昌彦氏が自らの人生を真正面から見つめ、自由奔放に語っていることだった。少なくとも私はそのように感じた。とりわけ冒頭から、自ら指導した60年安保闘争の学生運動でガンガン行っている。「羽田空港で籠城、逮捕」、「反安保デモ国会突入」などと、今では想像できない見出しが、写真付きで躍っている。60年安保闘争から70年安保闘争を担った若き活動家には伝説的でさえあった昌彦氏のペンネーム「姫岡玲治」を紹介したうえで、それにまつわるエピソードまでを披露している。過去への沈黙を礼節と信じた筆者はただ呆気にとられるばかりであった。
 何故彼はそこまで、研究者として世界トップにたつ彼にとって人生の一ページでしかないかもしれない、60年安保闘争にこだわるのだろうか。唸ってしまった。しかし読後のこの爽やかさは一体何だろう。
 筆者にとって青木昌彦氏のイメージは、「華麗なる転身」、「遥かなる人」でしかなかった。しかし、一気に身近な存在になった。文脈すべてに彼の人格がにじみ出ていると思った。その真摯さが、自らの「履歴書」公開に敢えて踏み切らせたのであろう。
 さあ調査に移ろう。町の有力者の想いに全力で応えようと決心した。方向は二つである。ひとつは、なんら繋がりもない青木昌彦氏との接触であり、もうひとつは、苦手な郷土史への取り組みである。調査は思いがけない展開を見せるのである。
(青木忠)

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