新島襄英語塾生であった因島田熊八幡宮宮司故村上芳喜氏が残した田熊教育

大河ドラマの「八重の桜」は朝敵の汚名を着せられた会津藩の女性狙撃手として新政府軍と戦って降伏。京都の兄の家で暮らしていたところ、同志社大学創設者、新島襄の求婚を受け入れ明治維新のクリスチャンとしての活躍のシーンに登場することになった。

結婚式はプロテスタントだったのでカトリック様式より地味だった。それでも古い仕来たりを重んずる京都民にとっては珍しい洋装の挙式であったことにはちがいない。ならぬことはならぬ―と教え込まれた会津藩の男勝(まさ)りの女性から維新にかけてモダンウーマンに変身。信じた夫を裏切るわけにはいかぬ―と、キリスト教に入信、夫の念願に助力して同志社英学校開校への運びとなった。

小さな英語塾生の中に因島田熊町の八幡宮々司、故村上芳喜先生がこのころの塾生であったことを耳にしたのは大東亜戦争が終った数年後のことである。村の人は大田熊の先生と尊敬。戦中は村の青年達をお宮に集め日本外史の講義をしていたと聞いている。

因島七か町村が御調(みつぎ)郡下だったころの話です。田熊村の鎮守の森、亀甲山に鎮座する八幡宮の宮司は屋号を「大田熊(おだくま)」と呼ばれ、村の衆から尊敬された。

朝5時になるとお宮の太鼓を合図に村の青年たちが拝殿に集り日本外史(頼山陽著)の講義をするのが日課だった。先生の履歴は青年のころ島を出て京都の新島襄の門をたたき、岡山女学校の校長など歴任。宮司になってからは第二次世界大戦で多くの出征兵士を送り出した。

その一方で、アメリカから機帆船「福音(ふくいん)丸」で伝道にやって来たバプテスト教会・ビッケル船長の流れを引く幼稚園設立を黙認。日本神道とキリスト教的児童教育の場が隣接、さらに小、中学校が加わるという文化ゾーンができあがった。

いまでは尾道教育に吸収され統廃合が進んでいるが、若者の減少で秋祭りの「山車」の催しなど、地域文化行事の参加、校舎・グラウンドの跡地利用や卒業生が残したモニュメントの保存などにも心を配ってほしいという声も。

(村上幹郎)

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