下見吉十郎とさつま芋 飢饉から瀬戸内を救う

瀬戸内へ伝来したさつま芋は、黄色のカライモ系で正徳元年(1711)のことだと言われている。これを薩摩から持ち帰ったのは愛媛県大三島の農民下見(あさみ)吉十郎である。

洲江町正善寺のいも地蔵・いも代官の供養碑

時期的には、石見(いわみ)銀山代官井戸平左衛門が栽培したのより20年以上も早い。青木昆陽が江戸で栽培をはじめたのは、さらに遅れて享保20年(1735)のことである。生まれた子どもたちが相次いで死亡した吉十郎は思い悩み、38歳のとき六部行者になって全国66カ所を回り、この旅の記録を日記に残した。

正徳元年11月20日に鹿児島に到着し、「二十二日には鹿児島の西四里半の伊集院村で、土兵衛方に宿泊しここでイモ種をもらって持ち帰った」と記している。当時、薩摩島津藩は領地内での農民間のやりとりは許していたが、藩外への持ち出しは厳しく禁じていた。種芋をたもとに隠し必死の想いで脱出し、故郷大三島に帰った。

翌朝、種芋の繁殖を試みいもづるを付近の農民に配り、試作をたのみ、栽培法を伝授したところ秋にはそれが実った。さらに近隣の島嶼部で栽培を広めた。その結果、さつま芋はこの地域の一大農産物になった。

享保17年(1732)の大凶作は西日本が最もひどく、伊予国(愛媛県)だけでも餓死者数千人がでた。ところが島嶼部は、幸いにしてさつま芋を食べ、大飢饉の危機を乗り越えた。太平洋戦争時の戦中、戦後の食料危機を救ったのも島嶼部のすみずみに栽培されていたさつま芋だった。

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