碁打ち探訪今昔四方山話【29】「耳赤」のエピソード(2)起死回生の一石三鳥の妙手

 秀策の生涯で5本の指に入る有名局として「耳赤の一手」は伝えられている一つで、姓を安田と名乗っていた天保14年、15歳で四段の免許を受けた頃から「一、三、五」の秀策流を試みはじめています。弘化元年、16歳。10月に江戸を出発、2回目の帰郷。同2年17歳、三原城主浅野甲斐守忠敬候に謁し、増禄の沙汰を得ました。


 弘化3年4月、18歳で三度目の江戸に向けて修行のため出発するわけですが、注目すべきは棋士としても最も重要な10代後半を1年半も国もとに滞在、日を定めては三原城に出仕して藩主浅野候の相手や城内の武士たちの指導碁を行なって恩義にこたえていました。その間、備後地方を訪れた本因坊家所属棋士勝田栄助四段、岸本左一郎五段との対局による研究をしたものの重要な対局を打っていないようです。腕がにぶる、成長が止まるという不安はなかったのでしょうか。大阪での順節との四番、因碩との五番を見る限りそんな気配はないようです。むしろ逞しさを増してきたようで空白の期間があったとしても技量の成長には関係なかったようです。
 いま一つ、16歳後半から18歳にかけて最も重要な時期をあえて田舎ですごし、この間、そこそこ碁を打ったとしても、どんな生活をしていたのでしょうか。秀策を取り巻く環境は三原城主から増禄され、身分はあくまでも三原藩士に準ずるもので江戸の本因坊家への入門は「預かり弟子」。今風にいえば留学生の身分です。本因坊家でも秀策をそのように遇していました。
 こうした立場の碁打ちは珍しい存在ではありません。なによりも三原城主が藩の棋士として処遇、秀策自身が江戸の家元の棋士として立とうという目標を固めていなかったようです。野望もない秀策は3度目の上府のさい大阪に3か月も滞在しています。ここで秀策の運命が変わるのですから人間いつ何が起きるかわかりません。
 当初予定していた中川順節五段と先相先で対局したが秀策四段の四戦全勝。このままでは大阪人としては面目ない。そこで旅に出ていた大御所、井上因碩八段の帰郷を待って秀策をぎゃふんといわせてもらおうという魂胆から大阪滞在を長引かせた。
 幻庵因碩は秀策より31歳年長の当時49歳。服部家から井上家に入り、かつては本因坊丈和と「名人御所」を賭けて死闘を繰り返した傑物。この数年前には本因坊跡目秀和との争い碁に破れて隠居したといえども大阪は井上家の勢力が強い土地柄。そこへ江戸の坊門の名馬が飛び込んできたので大阪の旦那衆がほうっておくわけがありません。(つづく)
(庚午一生)

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