因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【22】私と原発(4)

 上関原発工事現場に案内してくれる先輩に、海岸へとつづく藪のなかの小道を下りながら、繰り返しお願いした。「原発問題は勉強してなくて、苦手なんです」。事実そうであった。


 東日本大震災の発生を知ったとき、原発のことなどまったく思い浮かばなかった。そればかりか、福島県に原発があることすら知らなかった。原発の事故を知ったときの動揺は、深刻であった。事故への危機感、想定できなかったことへの無力感、存在を知らなかったことへの自信喪失感とが入り混じったものであった。
 原発事故の重大さを目の当たりにしながら、何故ここまで無知と無関心の時間を過ごしてきたのかと、歩んできた人生を振り返るしかなかった。原発問題を考える機会がまったくなかったわけではなかった。
 広島大学に入学することで原爆や核問題に目覚めた。被爆の傷痕に衝撃を受けながら、繰り返される米、ソ、英、仏、中の核実験に感じた「世界の破滅」の危機に真剣に悩んだ。学生のなかには、「何をしても無駄だ」という無力感さえ漂っていた。
 私のそうした危機感は、1964年夏から秋に展開された米原子力潜水艦「シードラゴン」佐世保入港阻止闘争へと発展していった。海の放射能汚染など原子力を動力とする潜水艦の危険性に人一倍反応した。しかしそれは、開始されたばかりの日本の原子力発電への反対には向かわなかった。当時、国をあげて流布されていた「原子力の平和利用」論に疑問を感じなかったのかも知れない。
 私が在学したころの文学部の名物教授で、原水禁運動の思想的なリーダーでもあった今堀誠二氏は著書「原水爆時代」(下)―(三一書房、1960年)で自信たっぷりに「原子力の平和利用」をうたっている。
―原水爆時代は即刻終わらせねばならない。原子力時代の輝かしい朝ぼらけは、もうすぐである。現代は一九四五年八月六日をもって原子世紀にはいったが、不幸にもその瞬間に原水爆時代という迷路にふみ込んでしまった。それから一四年、原水爆禁止運動は人間がこの迷路をぬけ出して、原子力――すべての人間に対して正義と理性と幸福と繁栄が保証される、真の平和の時代――の大道に向かうために、あらゆる努力を重ねてきた。
 私は在学中一度も、今堀教授と会話を交わすことはなかった。絶版になった彼の著書を初めて読んだのは、2年前のことである。茨城県東海村で日本初の原子力発電が始まったのは、私が入学した1963年の秋である。私の原発への「無知と無関心」のルーツは広島大学時代にあると言えるかもしれない。
 そのころの原水禁運動は、ソ連につづく中国の核実験への対応をめぐって大混乱していた。「正義の核実験」であるとして擁護する勢力は決して小さくなかった。大学内においてはそれらの勢力との論争に勝利しながら中国核実験に抗議する集会を開くことで精一杯だった。
 やがて私は、学生運動の全国的再建のために活動場所を首都東京に移すことになった。ここで再び、原発に接近する機会を得る。米軍基地拡張や成田空港建設に反対する農民らと共闘を組むことになったからだ。原発はまずもって地元住民の問題であり、しっかりした問題意識さえあれば、原発問題への関わりも可能であったはずだった。
 「3・11」後に初めて気付くのだが、福島原子力発電所の建設過程は、私が東京で活動し始めた時期と重なるのである。1号機の建設工事が着工されたのは1967年9月、営業運転が開始されたのは1971年3月だった。学生運動は、安保・沖縄闘争を軸にして大きな高揚期を迎えていた。
(青木忠)

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