時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【12】秀甫の運命(その1)

 閑話休題 前項の秀策が父に宛てた手紙の中で「村瀬弥吉儀剃髪秀甫と改名―」と弟弟子の昇段を喜んでいる行(くだり)がある。しかし、秀甫はなぜか七段に昇段せず、翌年文久元年のお城碁にも参列しなかった。その間の事情について推理も含めて背景を紡いでみよう―。


 徳川幕府の庇護で約三百年続いた囲碁の家元制度は、明治維新によって崩壊した。代って、明治十二年に現在の日本棋院のもととなった「方円社」が誕生した。後の十八世本因坊秀甫(村瀬弥吉)は、この転換期の主役であったことは間違いない。
 しかし、彼の半生、とくに幕末から方円社結成までの十数年間は不明な事が多い。新資料を参考に幾つかの定説を修正しながら彼に迫ってみた。
 秀甫は天保九年(1838)江戸・上野車坂で生まれた。父親の職業は大工。家が本因坊道場の隣で幼少のころから囲碁に関心はあったはずだ。ところが、因縁というものは不思議なことが多い。大工の小倅が最初に囲碁の手ほどきを受けたのが家に来ていた旗本(はたもと)だったと伝えられる。旗本といえば、五百石以上一万石までの格式がある武士のことで、しかも市井(しせい=町なか)の民家に来て囲碁を教えたとなると、旗本以下の御家人(ごけにん)だったという説も残る。
 弥吉(秀甫)は八歳で本因坊家に入門した。当時の本因坊は十三世丈策。最初は弥吉が井目風鈴(せいもくふうりん)を置いても完敗、とてもかなわなかったが、丈策は少年の才能を見抜いていたと思われる。
 [注]井目風鈴=広辞苑によれば、技量に大差がある場合、碁盤の目の上に印した九つの黒点(星)に黒石をあらかじめ置き、さらに四隅の星からぶら下がるように置石を加える、とある。
 丈策は弘化四年(1847)に死んでいるので、弥吉少年が指導を受けたのは本因坊十四世の秀和と跡目秀策であった。秀策が父に送った書簡によれば弟弟子の弥吉が坊主頭になり秀甫と改名、お城碁出仕を認められるまでに成長したことがよほど嬉しかったのだろうと推察される。
わが家は貧しく―
 後年、秀甫が「わが家は貧しく、盆暮れ二回の師家への謝礼二朱に事欠き、父親が常に謝っていた。師から、将来ある子だからそんな心配は無用、と逆に慰められ、そのつど父は感泣していた」と話している。
 ここで「常に」とあるのは、その師十四世秀和のことである。さらに兄弟子の跡目秀策にも将来を嘱望されていたことは言うまでもない。こうして本因坊家は「我門風の之より大に揚らん」と期待されていたが運命のいたずら風が忍び寄ってくるのであった。(庚午一生)

[ PR ]瀬戸田で唯一の天然温泉

しまなみ海道生口島サイクリングロード沿いに建つ、島で唯一の天然温泉を持つゲストハウスです。

サンセットビーチの砂浜に面し、1,000坪の広大な敷地には、四季折々の花が咲き誇ります。部屋や温泉からは瀬戸内海に浮かぶ『ひょうたん島』と、美しい夕日を楽しめます。

素敵な旅のお手伝いができる日を楽しみにお待ちしています。

PRIVATE HOSTEL SETODA TARUMI ONSEN
瀬戸田垂水温泉
広島県尾道市瀬戸田町垂水58-1
☎ 0845-27-3137
チェックイン 16:00 〜 20:00
チェックアウト ~9:00