碁打ち探訪今昔四方山話【22】新発見 秀策揮毫の碁盤 三原の殿様下賜の逸品

「拳骨和尚の落款」

閑話休題 本因坊秀策が揮毫した碁盤を所蔵しているという"話"を耳にすることはあるが、秀策が十四世跡目であったことと、幕末というご時世もあって数少ない。そのほか前人未到というお城碁十九連勝という記録を残しながらも三十四歳という若さでこの世を去ったことも理由にあげられるでしょう。そうした背景のなかで、次のようなエピソードが残っています。

 


middle_1238233987 それは日本の周辺が黒船の来航もひんぱんになり江戸幕府も内憂外患の時を迎え、囲碁など技芸の振興は必ずしも国情に適さない時代に向いつつあり、お城碁どころでなくなりつつありました。そんな時代ながら秀策は希望をすてず、棋道の研究と後進の指導につとめ、安政四年秀策二十九歳の新年を迎え四度目の帰郷を思いたち恩師十二世本因坊丈和の二男(秀策の妻花子の弟)葛野亀三郎三段を同道して江戸を出発しました。

これが秀策最後の帰郷となったわけですが、郷里で半年余を過したあと九月終りには江戸に帰り、御城碁出仕に備え村瀬弥吉(秀甫)らを相手に研究を開始しています。この度の帰郷では虫の知らせでもあったかのように遺品となった話題の多くが残されています。その中の一つに前述した秀策大成の後援者だった三原藩主浅野甲斐守忠敬公から下贈された碁盤への揮毫も加えられるでしょう。

もう一つの碁盤は秀策揮毫とゲンコツ和尚のコブシ跡の落款の話が四国讃岐の琴平に残っています。

この拳骨和尚は尾道・済法寺住職竹田物外不遷和尚といい異名通り怪力の持ち主。柔術の師匠で、その弟子千数百人を越えたといわれ、勤王の志厚く俳句、書道にも秀でた傑僧でした。二人は金毘羅神社を参拝、その夜、旅館よしま屋に宿り、つれづれなるままに碁を囲んだ。いくら挑戦しても勝てない和尚が拳を振って盤側を打ったところ、その拳の痕が残った。宿の主人は大喜び。秀策に箱書を加えてもらい「天下の逸品」となし宝庫に秘蔵したという。和尚の拳痕のある碁盤は数面残されているが秀策の箱書のある盤は余り例を見ない。

写真は晩年に曹洞宗大本山永平寺から大和尚の位を受け、宮中参内の儀式を済ませたころのもの。

(庚午一生)

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