「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【7】第二章 初めての沖縄

激闘の翌朝、傷ついた身体を横たえながら読んだ新聞に、学生たちの行動が都心部において繰り広げられた記事が大きく載っていた。そして私に、破壊活動防止法の扇動罪などで逮捕令状が出されていることを知った。

私は半年以上も前から、四・二八沖縄デー闘争の責任を取りきった後に学生運動を引退することを決めていた。大学2年の夏からのがむしゃらな五年間であった。思い残すことは何もなかった。

腰部の痛みが激しく、歩行すら困難な状態だった。しかも、逮捕状が出されているわが身では、医者に診てもらうこともままならない。布団に横たわっているしか術がなかったのである。それでも時間の経過とともに、やがて痛みは軽くなり、通常通り歩けるようになった。

事件からおよそ10カ月経ったころ、東京地方裁判所での別件の判決公判に出廷した。そこには警視庁の刑事が張り込んでいることは想定済みである。東京地裁から警視庁へと連行された。そして起訴され、およそ1年1カ月間にわたり東京拘置所に勾留されることになった。

私の破壊活動防止法裁判の第1回公判は、まだ獄中にいた1970年7月20日のことである。最高裁判所で結審し、刑が確定したのが1990年9月27日。裁判は21年つづいた。24歳から45歳まで働きざかりの年月を費やしたことになる。

裁判の長期化は裁判の性格からしてやむを得なかった。むしろ被告たちはそれを望んだ。裁判のテーマはふたつである。

第1は、政治的演説を罰する破防法扇動罪が、憲法第一九条(思想の自由)と二一条(表現の自由)などに違反するという違憲裁判として争われた。

第2は、沖縄闘争の正当性を立証しようとしたことである。沖縄闘争は法廷に持ち込まれたのである。

裁判への社会的関心は高く、弁護団に北海道から九州までの54人の弁護士が参加した。そして、沖縄闘争の正当性の立証が焦点になった段階では6人の沖縄在住の弁護士が加わった。

私が裁判の進行に関する意見表明を法廷で行なったのは、第2回公判のときである。次のように述べた。

「私は、一個人としてではなく学生運動の責任者として責任を追及されている。それ故、私は学生運動を代表して本裁判を闘う」

そして、カール・マルクスが著書「哲学の貧困」の結びに引用した、フランスの女流作家ジョルジュ・サンドの言葉を結語にした。

「たたかいか、しからずんば死。血みどろのたたかいか、しからずんば無。このように問題は厳として提起されている」

この想いは私の青春そのものであった。そして今なお、私の人生の根底を貫いている。

私の裁判が始まって1年数カ月後の1971年11月、再び沖縄闘争に破防法扇動罪が適用された。いっそう裁判は沖縄裁判としての様相を強めるにいたった。いよいよ地元沖縄からの裁判への協力は不可欠となった。

裁判が開始されて10年余り過ぎたころ私は、裁判の被告として、地元の弁護士、有識者に働きかけるために沖縄訪問を決心した。

初めての沖縄である。飛行機に一度も乗ったことがない。

(青木忠)

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