碁打ち探訪今昔四方山話【52】秀策の兄弟子本因坊秀和(終章)幕末囲碁界の背景

不運の秀和の生涯

秀和の日本棋院囲碁殿堂入りは弟子の本因坊跡目秀策の次の年でした。強さ、功績、どれをとっても歴代の名人上手に引けをとらない―と評価されています。一世代前の十二代本因坊丈和や井上家の幻庵因碩らの陰にかくれて目立たなく自己主張が少なかった性格だったようです。口数が少なく「碁打ちはいい棋譜を残せばよい」と考えていたように伝えられます。闘争心を表面に出さない性格が一門をかけた争碁に不覚をとったり、幕末の動乱期から明治維新へかけての江戸幕府の崩壊という荒波に遭遇します。


幻庵因碩を争碁で破って名人碁所就位を阻止してから十数年間が秀和の生涯で絶頂期で門弟に秀策、秀甫を擁し、実子に秀栄がいました。あとは名人碁所につくだけ。それも手の届くところにいました。しかし、人には運気というものがあるようで時代が悪かった。安政6年に名人碁所願いを提出。どこからも文句を言われず承認されるはずだったが公儀の返事は「国事多忙多難ゆえ、延期して時節を待つよう」とお達し。

安政4年(1857)といえば内憂外患の年。諸外国は無理難題を押し付け、尊王攘夷論が沸騰するなど大混乱。このあと吉田松陰らが処刑された安政の大獄があり、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変に続き江戸幕府の崩壊へと続きます。

碁界も例外なく荒波に呑み込まれ、多くの碁打ちが不幸な晩年を迎えます。なかでも思惑外だったのは秀和だったでしょう。公儀の「名人碁所就位は時節を待つよう」とお達し。だが、やってくるはずはありません。世が世なら大名人ともてはやされたに違いない秀和の夢も苦難の道へと転がり始めます。

いったん悪い方に向うと不幸は重なるものです。跡目秀策の死も打撃でした。本因坊秀和が因島の秀策の父に送った手紙の内容から落胆の様子が読みとれます。さらに御城碁の中止が追い打ちをかけ、徳川幕府崩壊へと時代は移り変わります。

幕府の庇護を失った碁界はみじめなものでした。本因坊家の土地家屋は明治政府に返還を命ぜられたあげく火災にあってしまいます。どこまでも秀和の運気はついていません。わずかに残った土地にバラックを建ててしのいだものの明治6年(1873)困窮のうちに亡くなります。享年54歳でした。

(庚午一生)

お知らせ 碁打ち探訪今昔四方山話をしばらく休みます。次回から名古屋大学人文社会学部国際学課卒業の長神有紗さんの論文「ポルノグラフィティと因島」を掲載します。

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