碁打ち探訪今昔四方山話【24】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い

エピソードその三
 徳川幕府が崩壊、庶民の生活文化まで夜明けを迎えようとしていた明治時代前期の囲碁界の鬼才といえば水谷縫次(1846―1884)が隠れた存在にいる。尾道―今治を結ぶ、しまなみ海道の来島海峡をのぞむ大島出身で、ゆいじと読むのかほうじと呼ぶのか分らない。


 伊予国大島椋名の医師の家に生まれ、少年時代は伊予今治の神童としてさわがれ、本因坊秀策が四度目の安芸因島に帰郷したことを耳にすると、父親に連れられ因島外浦へ舟を出し指導を乞うた。まず、四子で水谷青年完勝。秀策先生頭にきたのかどうかは知らないが、もう一番ということになり、またまた秀策完敗。翌日、三子に手合を新ためても完敗しました。
 満10歳か、11歳の少年が御城碁で連勝記録を積み重ねていた秀策に四子、三子番とはいえ連勝したことには一目も二目も置かざるを得ない。
 この才能はすごい―と感じた秀策は、さっそく縫次の父親に上京して本因坊家へ入門するよう勧めました。少年の棋力を地方で埋れさせるわけにはいかないと思ったのですが、水谷家は医家で、縫次は御典医への道を進ませる―と、ことわりました。実現していれば秀策門弟1号となって、日本の碁界も大きく変ったかもしれません。
水谷縫次の運命暗転
 ともあれ大島の水谷家の足跡をたどってみたが確かな証拠は得られなかったが幕末から明治維新の混乱で名門や豪商の没落で医者への道もとざされたと思われる話が多かった。
 そんな話の中で賭け碁がエスカレートしてトラブルに巻き込まれ郷里におられなくなり明治13年(1880)に上京。方円社(日本棋院の前身)を興した村瀬秀甫の再三の招聘によってというのが通説になっているがヤクザの襲撃事件で命拾いして逃げ込んだと考えるのが妥当だろうと思われる。
 縫次が亡くなり、納棺のとき立ち会った人たちはびっくりしました。頭には28の刀傷。肩から背中や胸にかけては10余、満足な指はほとんどなく、よくも命が助かったものだと不思議がらせたものでした。
 囲碁の世界でも縫次はいじめられました。天才によくある対局態度にも問題クセがあったようです。打つたびにどうだといわんばかりに相手を見くだしたり意味もなく長考したり…など。縫次が活躍したのは晩年のわずか3、4年。特に藤沢秀行先生は高く評価していたという。
(庚午一生)

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