謎その33 村上義弘は六波羅探題に討ち入ったのか?

村上義弘は、伊予の河野一族に檄をとばし、葱那7島を支配する海賊、葱那重義、子重清、義範を宮方にし、まず幕府御家人の居住する長講堂領因島を攻めて、ここを占領した。この時に中庄に青影城を築いている。
ついでに元弘3年(1333)2月に妹婿今岡四郎通任などと、長門探題北条時直の六波羅援軍の兵船800余隻、兵5000余を鞆の沖にて撃退した。その後、義弘は京都に赴き、同年4月3日に赤松円心と六波羅探題を攻めて敗退、8日に公家千種忠顕とともに六波羅勢と戦ったがこれも負け戦さであった。27日、公家千種忠顕、結城親光それに赤松円心、村上義弘らは、総勢3800余の兵で、淀、古河、久我畷の南北3ヶ所に陣をはり、鎌倉より派遣されてきた名越尾張守高家の兵7600余と激戦、義弘も一族の中、子息以下郎従を多数討死させた。
しかし、この戦いでは、敵の大将名越高家が、赤松氏の一族佐用範家の強弓に射殺され、将を失った兵は敗走した。これらの戦いには、義弘も多くの犠牲をはらわねばならなかった。そのため義弘は大塔宮護良親王から「元弘3年5月8日付、左少将四条隆貞を通じ、度々の合戦で身命を捨て軍忠をいたした。去る4月3日同8日、27日等の合戦には、子息以下郎従を討死させ、もっとも不憫の次第で、深く感謝するものである。早々恩賞を与えるよう」との令旨が下されている。
以上の記述がされている本があって、長い間史実として信じられてきたが、近年、「義弘は六波羅探題に討ち入ってない」というのが定説になってきている。
この件に関して、大正時代に「贈正五位」騒動が起こり、長い間論争の種となった。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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