謎その19 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【3】
村上水軍の将・頼冬は西寂と戦った後、軍船三百隻に河野通信の兵三千を乗船させて、屋島の源氏軍に加わり平氏を攻撃して讃岐国塩飽荘にまで迫った。この塩飽荘攻略に村上海賊が総力を結集して向かったのは、頼冬の父清長が平清盛のために奪われた旧領地だったからである。この戦いに熊野速玉大社の別当職の別当湛増が、源氏方に加わり屋島から平氏を攻撃している。
平家物語には、源平の合戦にどちらかに味方するのかに決めかねて、赤と白の鶏を戦わせて去就を決めることにした所、白が勝ったので源氏に味方することに決定したと記述されている。伊予と熊野の水軍が、ここで合流したことは、平氏にとって手痛い打撃となった。
関東の武者の集まりである源氏方は、馬を使った陸戦を得意としていたが、海上での戦いに不慣れで、海戦では平氏の方が優勢とされていただけに、河野・村上氏が源氏に味方したことは源氏方にとってさぞ心強いことであったろう。
屋島の戦いで平氏は敗れ、長門の国の彦島に本拠を移し、肥前の松浦海賊ら九州勢も味方に付けて決戦に臨んだ。
こうして、文治元年(1185年)3月24日「壇の浦の合戦」の火蓋が切って降ろされた。
両軍の戦力については諸説あるが、軍記類はオーバーで、鎌倉幕府の公的日記「吾妻鏡」の「平氏五百隻、源氏八百隻」を妥当とする見方が一般的である。
当初は平氏が内海に戻る下げ潮に乗って源氏を満珠、干珠の二島付近に追込み優勢に戦いを進めるが、やがて潮が外海へ出る上げ潮に変わり、潮の流れに乗った源氏が反転して攻勢になり平氏は大敗した。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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