2010年12月11日村上水軍99の謎今井豊 謎その44 芸予諸島に残る巳午の行事は水軍と関係があるのでしょうか?芸予諸島と伊予の瀬戸内沿岸地区に巳午というこの地区独特の追善供養の風習があり、仏様の正月と呼ばれ、12月の最初の午の日に行われる一足早い正月となる。 その縁起に関しては諸説があるが、いずれも瀬戸内の水軍武者達が合戦で戦死 […]
2010年9月19日村上水軍99の謎今井豊 謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか?伊予に下向して病死した脇屋義助(わきやよしすけ)の子・義治や、新田義貞の子・義興と弟義宗は、越後の国で南朝の兵を挙げ、文和2年(1353)11月5日に北朝軍の和田義成・景茂に苅羽郡小国城を攻められ落城した。それから、宗良 […]
2010年7月4日村上水軍99の謎今井豊 その42 新田義貞の弟・脇屋義助の伊予下向の意義は?新田義貞の弟・脇屋義助が、興国3年(1342)4月23日に四国西国の南朝方の大将として今治に着任した。義助は興国2年9月18日に美濃根尾城に籠もり、北朝方に攻められ敗走して尾張・熱田大宮司に助けられた。そして尾張・羽豆崎 […]
2010年2月22日村上水軍99の謎今井豊 謎その41 村上義弘の遺児信清はその後どうなったか?魚島から新居大島などに移り住み、村上氏を継いだ村上師清に育てられ、成人した信清は河野氏に仕えて水軍の将となった。 師清は今岡通任の娘を自分の養女にしてこの信清に嫁がせた。 その後、子孫は戦国の動乱期に6代・島吉利のように […]
2010年2月22日村上水軍99の謎今井豊 謎その40 村上義弘の遺児信清は何故村上家を継がなかったのか?島家諸伝「村上氏系図」には「わずか2才、これをもって家臣権を争い、乱をなす」とあり、家臣たちの権力争いをわずか2才の信清では治めることが出来なかった。 その頃は激動の時代で村上水軍の存亡が懸かった時期だけに最大の英雄であ […]
2009年12月18日村上水軍99の謎今井豊 謎その38 村上義弘は存在したのか?村上義弘の事績はつじつまの合わないことが諸点あり、その存在さえも疑問視されるようになり、そのため「架空の人物」とか「まぼろしの海賊将軍」とさえ云われるようになった。 ただ村上義弘は地元では「村上水軍と言えば村上義弘」とい […]
2009年10月12日村上水軍99の謎今井豊 謎その37 村上義弘の墓はどこにある?講演会で「因島に義弘公の墓はあるのか?」「金蓮寺の裏の水軍墓は義弘公の墓か?」という質問を受けて、「因島には義弘公の墓はない」と答えると以外な感じに受け取られたようであった。 義弘公の遺骸は本拠であった伊予大島の高龍寺亀 […]
2009年8月29日村上水軍99の謎今井豊 謎その36 村上義弘の没年は?能島村上の家系図には暦応元年(1340)9月3日と記されており、因島中庄の金蓮寺にある位牌には観応元年(1350)9月3日となっている。 「予章記」の「今岡陽向軒陣中記」には正平24年11月16日の高外木城の攻防で終わっ […]
2009年6月22日村上水軍99の謎今井豊 謎その35 大塔宮の令旨の名宛人である治部法橋は村上義弘でなかったらだれなのか?治部法橋は因島中庄開発領主である上原前監入道祐信ではないか推論する論者がいて、その根拠を次のように述べている。 一、「萩藩譜録」の因島村上家譜に因島村上家初代備中入道顕長(吉豊)が、因島中務大夫其入道前監家を継いだという […]
2009年4月20日村上水軍99の謎今井豊 謎その34 村上義弘は信濃村上の系統を引くのか?能島・因島の村上氏の主家筋にあたる毛利氏が関ヶ原の合戦で西軍について敗れたために、能島・因島村上氏は本拠地である芸予諸島を追われ、定住するようになった周防大島(屋代島)の東端に伊保田という所がある。 そこに「島越前守吉利 […]
2009年2月28日村上水軍99の謎今井豊 謎その33 村上義弘は六波羅探題に討ち入ったのか?村上義弘は、伊予の河野一族に檄をとばし、葱那7島を支配する海賊、葱那重義、子重清、義範を宮方にし、まず幕府御家人の居住する長講堂領因島を攻めて、ここを占領した。この時に中庄に青影城を築いている。 ついでに元弘3年(133 […]
2009年1月18日村上水軍99の謎今井豊 謎その32 河野氏と村上水軍は伊予に戻ることが出来たのか?足利幕府の実権を掌握した細川頼之は、第3代将軍になった義満へのはなむけという名目で、応安元年(1368)の年明け早々に、再び伊予平定に乗り出した。河野通直は伊予から退却したが、なお伊予国内には河野一族の国人衆が多く残留し […]
2008年12月18日村上水軍99の謎今井豊 謎その31 村上水軍は何故敗色濃い南朝方に味方したのか?最大の理由は、これまでの記述でわかるように、隣国讃岐を治め北朝方の重鎮である細川氏の侵攻により伊予を蹂躙されたからである。細川氏と対抗していくために言わば「一時の方便」として南朝方に帰順したので、決して後醍醐天皇への忠節 […]
2008年11月2日村上水軍99の謎今井豊 謎その30 制西府と村上水軍は吉野への東上作戦を行なわなかったのか?制西将軍宮は北九州の征服が一段落すると、今度は義弘の水軍部隊をもって南朝朝吉野行宮への東上作戦をもくろんでいた。 その東上作戦は、正平22年(1367)2月10日に挙行された。 豊前小倉を出た東上軍は、二神水軍や屋代島の […]