謎その29 村上水軍は海賊からの成り上がりか、村上源氏の天下りか?

村上水軍の文献を読んでいくうちに、村上水軍は「海賊もしくは廻船業者がだんだん組織化していって地域の豪族(武士集団)となり、伊予の守護である河野氏の臣下となって仕えていたが、主家の危機に際して村上義弘が活躍することで河野氏に匹敵する勢力を持つ自立した豪族となり、それから遡って系図を整えたり記録を残した」という流れで把握するのか、もしくは「京都の公家である村上源氏が中央での勢力争いに破れて、まず信濃に流され、それから伊予に流されて伊予大島に定着して、地元の海賊や船乗り達をてなづけて組織化を図り村上水軍を築いた」と理解するのかという岐路に立たされた。
今までの書籍、とりわけ村上氏の子孫が書いた書籍は後者の立場に立って書かれている物が多いようである。
「海賊成り上がり」説の場合、最大の弱点は資料が乏しいというより皆無といってもいい位のために実証することが困難であるということにつきる。誰も自分に都合の悪い事を書き残すようなことをしないし、その必要性も時間的な余裕もない。社会的に成功者と周囲から認められるようになって初めて記録し始めるのである。
現に多くの水軍関係の文献は、江戸時代になり戦乱がなくなり世の中が安定して書かれている。
その例として「南海通記」は享保4年(1719)に書き上げられているし、重要な資料としてよく引用される「萩藩閥閲録」も享保年間に編集されている。
しかも、その頃の人達にとって出自(血筋)がいいという事は現代の人から見て考えられない位重要な価値であった。特に、系図作成にあたって天皇が始祖となっていない系図は無意味なものとして取り扱われなかったと思われる。
つまり、文献資料に基づいて村上水軍について書くとなれば「村上源氏天下り」説の色合いの強い物として出来上がってしまう。
戦前に書かれた村上水軍の本は「村上源氏天下り」説の上に、南北朝時代に南朝に味方した武将を英雄視する皇国史観の色彩の濃い内容であったが、最近になって次第にそれが払拭されていっている。
今後、さらに文献資料の解読と城跡の発掘調査が進む中で、もっと村上水軍が解明されていくであろう。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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