宇品港をともに発ちしに置きてきし馬名「杉空」いかに果てしか

掲載号 06年04月15日号

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村井 計己

 「ああ、もう何年になるだろうか」広島の宇品港(陸軍の輸送基地)から輸送船に乗せられて中国大陸に渡ったのである。その時に一緒に渡って行った馬、あの「杉空」はどの様にして死んだのだろうか。あれから六十数年の歳月が経った。中国戦線の中支か南支戦線までの気の遠くなるような道程を歩き続けた、そのときに行を共にした我が愛馬であった「杉空」、そのまま中国の地に置いて私のみ復員して来た。

 思えば「杉空」には随分と世話になった。小休止の時には、まず馬に水を呑まし、自分の身よりも馬を大事にするのである。永い歳月のなかでは、かつての上官の名前など記憶のどこにもないが、「杉空」のあのやさしい瞳やふさふさとした鹿毛の手触りが思い出される。

 作者は寡黙の人であって時折りに聞いた話の断片を少し記してみたい。昭和十六年の赤紙召集兵と聞いた。兵科は輜重兵(旧日本軍の武器。弾薬・食料などを前線部隊に補給する任務をもった兵科)。輜重兵科の部隊にも輓馬(ばんば)部隊と機械化の部隊があって、作者と「杉空」との一心同体の行軍が始まった。ときに中国全土の詳細な地図を広げて見せてくれた。中国での任務の遂行中に使っていた地図である。果てしない土地を徒歩での行軍の跡を赤い線で書き込んでいた。そこにどんな労苦があったのだろうか。

 この歌の作者は、先日急逝されました。本欄にも何回か作品を引用させて頂きました。この度の執筆は改めて追悼の意をこめての一文としますが、他にも戦争の語部(かたりべ)としての短歌作品もありますのでご紹介します。
(池田 友幸)

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