謎その6「芸予諸島と村上水軍の起源には関係があるの?」

村上水軍は、芸予諸島を根城にして、南北朝時代から室町・戦国時代を通して活躍しましたが、そもそも瀬戸内海のほぼ中央に位置する芸予諸島と、村上水軍の起源には関係があったのでしょうか?
実は、村上水軍が本拠地とした芸予諸島の地理的条件、自然条件が、最強・最大の水軍を生み、育てた要因になっています。


要因1 芸予諸島は海峡が狭い
海峡が狭いことにより、航行する船を管理し易く、関所(関立)を作って航行する船から通行料(帆別銭・荷駄料)や水先案内料を徴収して、組織としての水軍の経営を安定させることができました。
この関所(関立)を設置して荷駄料を徴収できたことが、単に収入源としてだけでなく公権力として豪族と対等の立場にあることを世に認めさせた面でも重要で、戦国時代末期に、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが村上水軍を「海の大名」とまで称するようになった最大の理由だと考えられています。
要因2 芸予諸島の海域は潮流が早い
「来島海峡」を臨む糸山展望台から海峡を見下ろすと、海が川の急流のように流れ、小さな船が潮の流れに翻弄されるのを、目の当たりにすることができます。
能島がある「船折の瀬戸」は、船が折れるほど潮の流れが急なことから名付けられた瀬戸で、春から夏にかけて漁船に乗り、潮流体験ができます。今年の春、私も乗船し体験してきましたが、潮流が岩に当たって砕けたり、渦を巻く感じがよくわかります。

船折の瀬戸(能島と潮流)
船折の瀬戸(能島と潮流)

地元の漁師が潮流、難所を熟知していて、水先案内人となったのが水軍の起こりの一つの要因とされています。時間と季節により、自在に変化する潮流を体得した「海の民」であったことが、時代の流れに融通無碍ゆうづうむげ(何ものにもとらわれることなく自由であるさま)に対応する水軍を育てて来たのでしょう。

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筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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