謎その5「水軍と海賊はどう違うの?」

水軍と呼び始めたのは、比較的最近のことで、昭和の初期になってからとされています。それまでは海賊と言っていましたが、海賊すなわち「海の盗賊」ですから、いくらなんでも「自分たちの先祖は盗賊だった」では良くないので、地元の郷土史家たちによって「水軍」という呼称が考え出されたわけです。


この水軍という呼称は世間の人が村上氏に対して抱いていたイメージと合ったことと、海賊=盗賊といった悪いイメージを払拭したことで、すっかり定着してしまい現在に至っています。
瀬戸内海で海賊行為が行われ始めたのは、とても古く、奈良時代にさかのぼります。聖武天皇が天平2(731)年に「京および諸国の盗賊と海賊を対武する」という詔を発布しているほどです。
奈良・平安時代に、当時の律令政治は、一般庶民に重税を課せた体制で、生活に困窮した瀬戸内の島民が、航行する船を遅い積み荷を奪ったのが、海賊の発祥とされています。
天慶2(939)年には藤原純友の乱が起こり、時の政府に対して、瀬戸内の海賊が集団化して決起して、世を揺るがすまでになりました。

その後、南北朝時代における村上義弘の活躍、戦国時代に毛利氏の下に合戦のんい臨んだことで、豪族・大名の海軍部隊としての存在が確立され、水軍の呼称にふさわしいものとなりました。
つまり、時の権力(王朝・幕府・豪族)からみて、「権力の制定した法律に従わない海上での盗賊を海賊」、「権力の下で海の軍事力として使われるようになれば水軍」の図式となります。
水軍が完全に姿を消すきっかけとなったのは、豊臣政権が天正16(1588)年に発令した「海賊禁止令」です。これは、中世から近世に移行していく歴史の流れの中で「権力(軍事・警察・納税)の中央への集権化」の方向から生じたものです。
ただ村上水軍に代表される水軍が、歴史上名を残し、今日まで伝えられるのは、単なる海賊に止まらず、組織(経営体)を作り上げ、継続し発展させ、軍事、海運で活躍したことによるものだと思われます。


羽柴秀吉の海賊禁止令
(出典「伊予水軍物語」:転載を禁じます)

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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