その42 新田義貞の弟・脇屋義助の伊予下向の意義は?

新田義貞の弟・脇屋義助が、興国3年(1342)4月23日に四国西国の南朝方の大将として今治に着任した。義助は興国2年9月18日に美濃根尾城に籠もり、北朝方に攻められ敗走して尾張・熱田大宮司に助けられた。そして尾張・羽豆崎(愛知県知多郡師崎)の神宮領でととのえて、海路伊勢に渡り、伊賀を経て、吉野の後村上天皇の行宮に参内した。

脇屋義助は、熊野の海賊の兵船300余隻で、淡路の沼島に渡り、淡路の志知庄を所領としていた安間・志知・小笠原の一族に迎えられ、そこから小島に着いた。

ここは、佐々木信胤や沼島の豪族梶原二郎がすでに南朝方に加わっていたので、平穏に伊予までいけたのである。

義助を伊予の国分寺に迎え南朝軍は、土居、得能に国司四条少将有賀、守護大館氏明などの連合軍で、讃岐・阿波から伊予にかけて勢力を張っていた細川頼春を攻撃して勢力を挽回した。

しかし、4月23日に着任したばかりの義助は、5月7日に急病に襲われ5月11日にこの地で急逝した。

義助の墓は、今治市桜井の国分寺の東にある唐子山の南麓にあり正面には「脇屋刑部卿源義助公神廊」の銘があり、側面には「暦応3年(1340)5月11日卒」と明記されてある。この墓は後年に建てられたものらしく義助の病没は、康永元年(興国3年 1342) 5月11日が正しい。

義助が病死すると、細川頼春を総師とする北朝軍はこの機に乗じて、伊予の守護大館氏明の守る世田山城を攻めた。氏明は兵を壬生川に出撃させて防戦したが敗れ、世田山城も包囲されて、康永3年(1342)9月には兵糧もつき、氏明は自害した。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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