謎その30 制西府と村上水軍は吉野への東上作戦を行なわなかったのか?
制西将軍宮は北九州の征服が一段落すると、今度は義弘の水軍部隊をもって南朝朝吉野行宮への東上作戦をもくろんでいた。
その東上作戦は、正平22年(1367)2月10日に挙行された。
豊前小倉を出た東上軍は、二神水軍や屋代島の戒能兄弟を加えて淡路島南端の沼島を目指した。この沼島には永年南朝方に立って北朝の軍勢と戦ってきた小笠原氏が居たからである。
沼島に着くと、すでに小笠原氏は北朝方の細川氏に降伏し、その支配下になっていた。
しかも細川頼之の策謀によって南朝方の楠正儀は北朝方に降参して、南北両朝合一のことが協議されているという。
こうして、せっかくの東上作戦計画は挫折してしまった。義弘は空しく軍船を豊前小倉に帰し、戒能兄弟は屋代島に戻ってしまった。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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