謎その27 南北朝期に村上水軍はどうたたかったのか?パート1 讃岐細川氏の伊予侵攻と世田山城の合戦

貞治2年(1363)に隣国讃岐の細川頼之が伊予に侵攻を始めた。
その頃伊予には南朝方の土居・得能氏の勢力が盤踞し、瀬戸内の島々には北畠親房の水軍戦略によって忽名・村上などの海賊衆が九州太宰府の征西府に協力しながら吉野朝と通じていた。
北朝方の重鎮である細川頼之は伊予の支配権を確立して、これら南朝方の勢力を駆逐し、同時に四国全土を制覇しようと野心に燃えていた。
年が明けた貞治3年(1364)に細川軍は、新居郡を席巻し、桑村郡楠の世田山城を包囲した。河野氏の当主である河野通朝が要害堅固なこの山城に立て籠もっていたからである。通朝は2ケ月間にわたって細川軍の猛攻に耐えていたが、11月6日に斎藤衆が返り忠をはたらき、敵の軍勢を城中に引き入れたために壊滅状態になり通朝は城中で自害した。
この時、通朝の嫡男徳王丸は河野氏の本拠高縄城にいたが、まだ幼少であった。
細川軍の来襲を避けるため陣僧に連れられて越智郡竹林寺に逃れ、ついで風早郡猿川の神途城に入った。この後、徳王丸は河野家の菩提寺である下難波の大通寺で数日を過ごした後、背後の山城・恵良城で元服の式をあげ、河野六郎通尭と名乗った。
通尭は温泉郡の大空城を攻めていたが、細川頼之が大軍で攻めてきたので高縄城に退却した。
頼之は高縄城を包囲して猛攻を加えたので、またもや河野一族の中で内訌が起こり、高縄城は陥落し、河野軍は四散した。やむなく通尭は恵良城へ脱出して、抵抗を続けたが、河野氏の滅亡は時間の問題となった。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA