謎その26 村上水軍は元寇をいかに戦ったのか?

ほとんどの部隊が石築地の後方に陣を構えたのに対し、河野通有は石築地の前方に陣を構え、この戦に賭ける並々ならぬ覚悟を示した。通有の心意気に、後に陣取る多くの将兵達は「河野の後築地」と呼んで称賛した。
元軍(東路軍)は、5月26日に対馬沖に姿を現わし、江南軍が合流に遅れたたために、単独で、博多湾の志賀島に攻めて来た。この時、通有は小舟2?で元軍の大船を襲撃した。敵の大船から矢が射られ、たちまち4、5人が犠牲となったが、帆柱を倒して敵船に立て掛けてよじ登り敵船に切り込んだ。
この時の戦いで通有は敵の大将を生け捕りにする手柄を立てたが、伯父の通時や村上水軍の当主である頼久は戦死している。
蒙古襲来を伝える貴重な史料である「蒙古襲来絵詞」には、肥後の竹崎季長が負傷した通有を見舞い、敵船の状況などを聞いて情報収集する様子が描かれている。
元の江南軍は、1ヵ月半も遅れてようやく合流地点に到着した。この間、海上で合流する予定の東路軍は、水、食料不足などで悩まされ、疫病による死者も出たようである。江南軍がようやく到着し、14万余の大軍が博多湾を襲撃しようとした時に暴風雨が起こり、元軍は壊滅的な打撃を受けた。
功績のあった通有は、幕府から河野氏の旧領を復帰させられたばかりでなく、肥前と肥後にも領地を与えられた。村上氏は旧領大島、伯方島などを、忽名氏は興居島を与えられた。
凱旋した通有は、大山祇神社に戦利品の兜や弓矢を奉納して戦勝を謝し、ついでに東予市壬生川の北条郷に長福寺を創建して、戦没者の追善供養を行なった。この時に建てた供養塔は現有している。
通有は延慶3年(1310)に、この地で亡くなっている。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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