謎その25 村上水軍・河野氏は元寇(蒙古襲来)をどう戦ったのか?
第1次蒙古襲来である「文永の役」には河野氏も村上水軍も出陣していない。
第2次蒙古襲来である「弘安の役」に河野氏の当主・河野通有は村上水軍(村上氏当主・第4代村上頼久)を引き連れて参戦し、元軍の船に火矢をあびせて焼き打ちしたり、夜襲を行なって切り込んだりしている。
その頃の河野氏は、「承久の変」で宮方についたために没落し、鎌倉幕府の重鎮である北条時政の娘・谷(源頼朝の妻・政子の妹)を母に持つ通久のみがかろうじて河野氏を継ぎ、領地は削減され、今までに比べはるかに狭い石井郷(松山市)を領有した。
その領地を引き継いだ通久の孫・通有に対し、幕府は蒙古の再襲来に対する博多湾沿岸を防備するように命令が下された。これを河野氏の失地回復の好機と考えた通有は奮い立ち、九州へ旅立つ前に氏神である大三島の大山祇神社で戦勝祈願を行なった。
通有は戦勝に賭ける自分の並々ならぬ決意を記した起請文を焼き、その灰を飲み込み、家来達ニ心意気を示した。
大山祇神社には通有が戦勝を祈願して楠に鎧を懸けた「鎧懸けの楠」が残っている。
「文永の役」から7年後の弘安4年(1281)に元軍はフビライの命令下、再び日本を襲来してきた。今回は軍を二手に分け、東路軍(朝鮮南岸より出発、軍船900、兵4万2千)と江南軍(中国南部より出発、軍船3500、兵10万)が日本を目指すが、江南軍の到着が遅れ、両軍の合流に手間取っていた。
日本側は、博多湾の沿岸に石築地を築いて、元軍を待ち構えた。この石築地は元寇防塁跡として現在も博多湾に面する海岸に残っている。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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