謎その24 河野氏と一遍上人との関係は?

時宗の開祖であり、盆踊りの起源となった「踊り念仏」や国宝「一遍上人絵伝」で知られる一遍上人は河野氏の出であります。
一遍上人は「承久の乱」で僧であったために生き残った通広(通信の3男)の次男で、道後にある宝厳寺で延元元年(1239)に生まれたとされています。
父の通広も河野氏存亡の危機が生じた頃は還俗していましたが、父のように還俗して武士になり妻子がいましたが、思う所があり再び出家します。


一遍は尼僧になった妻超一と娘超二を従えて行脚に出かけました。
「遊行する一遍達」
一遍は多くの信者を引き連れて、北は奥州から南は九州まで国内各地を15年に渡って遊行します。
遊行は、「踊り念仏」と「念仏札」の配布で行われ、飢餓、疾病、殺戮が蔓延し暗かった世相の時代に一遍は多くの民衆から大変慕われました。
また、その時代には珍しく、人間の平等を説き、時宗を開きます。
「通信の墓に詣でる一遍」
一遍は遊行の途中で、「承久の乱」で信州判野荘(長野県佐久市)に流され、通信の4男で叔父の通末の墓を訪ね、その墓前で「踊り念仏」を初めて踊ったと伝えられています。
また、奥州江刺に流された祖父・通信の墓にも詣でました。栄光と波乱に満ちた通信の生涯を思いや り、一遍の胸中はいかばかりだったでしょう。
一遍は、正応2年(1289)に兵庫和田岬で眠るように51才で入寂しました。一族の滅亡や離散が、一遍上人の信仰に大きな影響を与えたことでしょう。
亡くなった10年後の正安元年(1299)に、「一遍上人絵伝」が完成しました。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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