謎その22 村上氏3代頼冬には嫡子はいなかったが後継ぎはどうなったのか?
頼冬には男子がいなかったので、通信の弟にあたる通吉の子亀千代丸を養子として迎えている。これが日向守頼久である。こうして村上氏は河野氏の一族となった。
その頃、村上氏の館は、大島本庄の奥地田居の台地と、宮窪の二ヶ所にあった。
村上氏と姻戚関係となった河野通信は、伊予大島を配下として手中にし、やがて建暦3年(1213)には新居郡西条庄を確保した。建保6年(1218)には伊予全土の守護職に任ぜられた。こうして、鎌倉幕府と主従関係を結び、支配権を確立していった。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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