謎その21 源平の合戦で勝利した河野・村上氏はどういう恩賞をうけたのか?

壇ノ浦の合戦を源氏の勝利に導いた河野通信の功績は大きく、鎌倉の由比ヶ浜で催された戦勝の祝いの席で功労の順に席が設けられていたが、源頼朝がまず第1席に座り、通信は第3席に座る程高い評価を得ていた。この第3席に座ったことが、河野家の家紋が「傍折敷に三文字」になった由来とされている。
ただ実質の論功行賞はそれほどでもなく、通信は、元暦2年(1185)に伊予道後7郡の守護職に任命されたにすぎない。
ただ、頼朝は通信との関係を重要視していたのであろう、妻政子の妹「谷」を側室として迎えさせているし、河野氏の氏神である大山祇神社の大鎧を奉納している。
村上頼冬も本領を安堵されている。村上頼冬が家臣の越智通住に「褒美として何をのぞむか」と聞いた所、「平氏の姫をもらいとうございます」と云って、平氏の姫を妻にしたという逸話がある。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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