謎その1「村上水軍とは?」
村上水軍は、芸予諸島を根城にして、南北朝時代から室町・戦国時代を通して活躍しました。特に、南北朝時代に南朝方に味方して戦った村上義弘は、「皇国史観」が一世を風靡した戦前において、南朝の忠臣として英雄視され、今日まで「村上水軍と言えば村上義弘」と評されて来ましたし、数ある水軍の中で村上水軍が最も有名なものも村上義弘によるものが大きいと言ってもいいでしょう。
戦国時代には海賊将軍と呼ばれた「能島村上氏」の村上武吉の主導の下に「来島」「因島」を加えた三島村上水軍が、毛利元就・小早川隆景の麾下に入り、厳島の合戦で陶晴賢を破り毛利氏の中国制覇に大きく貢献しました。
織田信長と石山本願寺が対決した石山合戦では、本願寺方の救援要請に対して船団を組んで大坂・木津川口に来襲して織田方の水軍を打ち破り(第一次木津川口の海戦)、本願寺に兵糧米を運び込み、天下人・織田信長に村上水軍の強力さを示しました。
平時には、海峡に関を設けて、通行する船から「帆別銭」(通行料)を徴収して「海の大名」と呼ばれる程になりました。外国との貿易を盛んに行い、水軍の海賊から南蛮渡来のギヤマンなどが発掘されています。
多様に活躍した水軍も、天正16年(1588)に豊臣秀吉が発令した「海賊禁止令」により歴史の表舞台から姿を消す運命となりました。
写真は高龍寺(今治市吉海町)の村上義弘公記念碑。
筆者紹介
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因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。
このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。
私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。
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厳島の合戦の時点では、因島村上は既に小早川水軍に編入されていたのではないでしょうか。三島村上の中で、因島の存在がもう少し表面に出ていてもよいのではないか?浦家との結びつきで当然積極的に参戦したと推定されますが、如何でしょうか。