謎その18 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【2】

父親の河野通清が粟井坂の戦いで戦死した頃、息子の通信は九州で平氏と戦っていたが、父の死で帰る拠点がなくなり、母方の里にあたる安芸の沼田氏を頼り、そこでも平氏方と戦うが利あらず、やがて越智大島鳴河図城主、村上頼冬に迎えられ、そこで平氏と対決した。


平知盛にとって、平氏の拠点である長門の彦島城との連絡の都合上、来島海峡にある村上氏の海賊城は邪魔極まりないものであったので、養和元年(1181)9月27日に河波の豪族田口則良に命じて三千の兵をもって、伊予喜多郡比志城を攻めさせた。5日間の激戦の末、伊予の軍勢の守りは堅く、田口氏は千名もの戦死者を出して屋島に敗走した。
このため平氏は、先の伊予攻めで功労のあった備後奴可高信入道西寂や鞆六郎に命じて、野間郡波方浦(今治市波方町)を攻めて眼下の来島海峡の制海権を掌握せんとしたが、西寂は陣中で高砂や室津の遊女と酒宴を開いて興じているうちに、すっかり油断してしまい、遊女に変装して忍び込んだ出雲房宗賢などの数名の海賊衆にまんまと騙され、海岸から小船で連れ去られて生け捕りになってしまった。
あとでこの事件を知った平氏方の兵が追っ手を駈けたが、村上海賊は船上から炮禄火矢で攻撃をしかけ、まんまと西寂を連れ去った。
後年、宗賢はこの時の功により、温泉郡桑原村を拝領して桑原姓を名乗り、この子孫が後に屋代島に移住して大島の海賊となった。
こうして、寿永3年(1184)2月、西寂は伊予高縄山上の河野通清の墓前で打となり、その死骸は閏谷に埋められた。この塚を人々は甲森塚と呼んだとのことである。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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