謎その17 村上水軍は源平の合戦でどう戦ったのか?【1】

その頃村上氏は河野氏の家来であったことから河野氏の下で戦っている。河野通清は息子の通信や通教とともに、治承4年(1180)の冬に高縄半島で挙兵した。通清は息子の通教に平氏方の伊予守惟盛がいる目代の館を攻撃させたが、かえって通教の軍が敗れたので、父通清が数千の兵を率いて応戦し、通教の救い平氏方を敗走させている。


しかし、伊予の平氏方は、その後も赤滝城(周桑郡桜樹)、文台(周桑郡中川)、大熊(周桑郡桜樹)の城に立てこもり、河野氏と戦ったが、いずれも通清のために滅ぼされた。通清は息子の通信に九州の源氏方の支援を命じた。
この間隙をついて、養和元年(1181)1月、阿波の田口成良をはじめ西国の平氏方一万余の兵が伊予の国に攻めてきて、通清一千余の兵を温泉郡温泉城で敗った。通清は地元の高縄城で防戦した。
この間、越智大島庄にいた村上清長は海賊衆を率いて通清を援けたが平氏方は多勢で苦戦を強いられた。備後国鞆浦から数百隻の軍船で攻めて来た平奴可西寂と養和元年(1181)正月11日に風早郡高縄で翌12日には和気・風早郡の境の粟井坂(愛媛県松山市北条粟井)で激戦のすえ郎従とともに討ち死にした。この戦いで河野通清も城を焼かれ戦死している。
西寂は、大島の村上氏が源氏軍に加担したことに怒り、帰路大島に押し入り、村上氏の菩提寺高龍寺に放火して、伽藍をことごとく焼失させた。この時御本尊一体のみがわずかに焼失をまぬがれている。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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