謎その12「村上氏が伊予大島を地盤にするようになったきっかけは?」

伊予の越智大島は、当時野島と呼ばれ、村上定国の祖父仲宗が足跡を残した所とされていました。『能島来島因島由来記』によると、仲宗は藤原純友の乱を平定した越智好方の子孫である河野親経とともに、伊予守・源頼義の命を受けて、伊予の道前と道後に多くの神社・仏閣を建立したからです。


特筆されるのは、村上義弘公の菩提寺とされる高龍寺縁起の中に「村上再興の事」として、「鎮守府将軍源頼義と村上筑前守仲宗は御重縁の間柄で、仲宗が同族にあたる堀河院右大臣源顕房の御子、まだ8歳の、後の定海大僧正をつれて伊予の温泉に旅行しました。
この時、定海は三年間道後温泉で保養したが、この旅の途中寄港した越智大島にある名刹龍慶寺を再建し、定海大僧正を中興開山にして村上仲宗を開基にして亀老山潜窟船玉院宗豪寺と号した」とあります。
ただ8歳の定海が寺院の造営という大事業を直接指揮したとは考えにくいです。しかし、後に醍醐寺大僧正となり、しかも大島が醍醐寺の寺領であったことから、何らかの関係があったことは想像できます。
大島が醍醐寺の寺領になった経緯としては、定海の祖父土御門右大臣師房は、大島の甘原という所に30町歩の田地を所有していたが、藤原基隆が伊予守のときに醍醐寺に寄進しています。こうして村上氏と越智大島との関係は深くなっていきました。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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