謎その10「村上氏の系図の信憑性は?【パート2】」

【見解 その2】看板(象徴)説
歴史の中で、新しい勢力が勃興して強大な勢力と対抗しようとする時、新しい勢力の中心に、由緒正しい(血筋の良いとされる)人物を迎えて、それの下に集合した。
その一つの典型が、源平の合戦の時の源氏方(関東方)に見られる。


その当時、新興勢力(身分が低いとされた)である関東の武士団は、源氏の流れを引く源頼朝を総大将(表看板)にして、平氏政権を滅亡させ、東国の鎌倉に武士政権を誕生させた。しかし、政権が樹立され、基盤が強固になると源氏はその役割を終え、北条氏に取って代わられる運命となた。
その実権を握った北条氏でさえ、自らは執権に留まり、将軍には京都から宮を迎えている。
ほんの最近の事例ではあるが、自民党政権を倒した連合政権も、首班は奇しくも細川護熙《ほそかわ もりひろ》氏(※1)であった。
また国家が非常事態を迎えた時も、挙国一致内閣の首相を由緒正しいとされる人物にした歴史がある。戦時体制に突入しようとした時の近衛文麿《このえふみまろ》内閣(※2)と、敗戦直後の時の東久迩《ひがしくに》内閣(※3)がその例である。
村上水軍も、いつまでも海賊や水先案内人では、社会的に基盤は築けないという思いから、伊予大島に流れてきた村上氏を看板として担ぎ上げて勢力を拡張していったのかもしれない。
※1:細川氏の家系は足利氏一門細川氏(上守護家)の流れを汲む旧熊本藩主の家柄で、明治期に侯爵家となった。細川家17代目の父は、細川護貞侯爵。また母・温子の父は、近衞文麿である。
※2:近衛家は、五摂家筆頭の華族の家柄。爵位は公爵。文麿は第二次世界大戦前に首相を3度勤めて、昭和20年12月に青酸カリで自殺。
※3:東久邇宮家は、1906年に明治天皇の特旨により創立。東久迩は、明治天皇の第九皇女・泰宮聡子内親王(のち東久邇聡子)と結婚。皇族唯一の内閣総理大臣である。

【見解 その3】養子説
大阪船場(※4)の問屋さん達の間では、優秀な使用人を養子に迎えることで商家を没落させないようにしたという歴史がある。
身分と経済的な援助を引き替えてお互いのためとした方法で、村上氏の初代仲宗も養子だという説がある。【謎その8・図1参照
※4:現在も問屋街が残る大阪「船場」地域の基盤は、豊臣秀吉が平野や堺、京都、伏見から商業者を強制的にこの周辺に移住させたのが始まり。石山本願寺跡に大坂城を築城時に、大勢の家臣団や武士がこの地に集まり、武器・武具から食料・生活用品などが大量に必要となったので、急速に城下町の整備を進めた。平野町、伏見町といった町名はその名残りである。
その後、船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地となり栄え、江戸時代になってからは「天下の台所」として、我が国の経済都市の要となった。
伊藤忠商事や丸紅などは船場を出発点とする企業だと言えよう。

筆者紹介

今井豊
今井豊歯科医師、尾道市文化財保護委員
因島外浦町在住で、職業は歯科医師です。1997年ごろから趣味で、村上水軍の歴史を中心に、文化財・郷土史などの研究を重ね、現在は尾道市文化財保護委員をしています。

このコーナーでは、瀬戸内海のこの地域で約400年前に活躍した「村上水軍」の歴史について、身近な疑問に沿ってやさしく解説していきたいと思っています。

私はいつも「歴史を学ぶということは、ただ歴史を知るだけではなく、歴史を現代にいかに活かすかを考えることがとても大切なことであり、歴史はつくろうと思ってつくられるものではなく、今一生懸命やっていることが時を経て歴史となる」と考えています。これからも、常に研究をつづけていきたいと思います。

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