戦後六十一年を生きて【5】因島空襲と青春群像 57年目の追悼行動 歌で伝えよう

掲載号 06年09月23日号

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青木 忠

 空襲の犠牲者への追悼の試みは、因島三庄町7区森神社下にある防空壕前のコンサートで始まった。およそ100人の参加者は、ピアノに合わせて歌うことで追悼の想いを伝えようとした。2002年(平成14年)7月28日のことである。米軍は57年前のその日、2回目の空襲を行い、多くの犠牲者が出た。空襲の時と同じようにとても暑い日であった。

 とにかく行動に打ってでなければならなかった。空襲の日になにが起きたのか、誰が犠牲になったのかさえ分らなかったが、亡くなった人たちに追悼の想いだけは伝えたかった。そして、行動に表すことで当時の状況を体験した人たちに思い出してもらい、何でもよいから教えてもらいたかった。

 こうして「因島空襲を想い語る会」は、57年が通りぬけた三庄町の空襲現場の真中で始まった。今年で5回目の集会が回を重ねるたびに、住民の追悼の想いは広がっていった。体験者の貴重な証言や調査活動を通じて、因島空襲による三庄町の被害の実態や犠牲者の氏名などが明らかになっていった。記念曲「平和の誓い」が生まれ、参加者の気持ちもいっそうひとつにまとまっていった。

 「想い語る会」には特に組織や運動体があるわけでない。夏のその日が近づいた5月頃になると、「今年もやるの?」と誰かが言い出すのだ。そしてそれを合図に準備が始まる。しかし大変なこともあった。3回目のことだが、台風に直撃され、誰もやってこないと予想されたこともあった。それでも100人もの人がやってきた。この集まりが地域に根付いたと手ごたえが確信できた瞬間だった。

 最初から5年間、ずっと支えてきてくれた人たちがいる。三庄老青会コーラスの「福寿草」の女性たち40人である。戦争体験者から戦後育ちまで幅広いメンバーが集い、空襲の集まりではいつも中心を担ってきてくれた。このコーラスのリーダーが、わたしの三庄中学校時代の恩師でもある村上茂子さんである。

 村上茂子さんは因島の中学校の音楽教育に情熱を注ぎこみ、同時に地域のコーラス活動の指導にあたってきた。自宅の一室で、1983年に因島市民会館であった「ウィーンの森少年合唱団」公演の際に、同合唱団と田熊中3年生100人の合同合唱を指揮する村上さんの写真を拝見したことがある。

 昭和20年の空襲ころは小学校の高学年で、当時の「塩田」「グラマン」「いも畑」「出征」「日立造船」などがまだ鮮やかに思い出されるという。「平和であることの有り難さや喜びをかみしめながら、平和な世の中でありつづけて欲しいと願っています」と教え子であるわたしに語ってくれた。

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今年7月23日、追悼の集いで歌唱指導する村上茂子さん

(つづく)

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