戦後六十一年を生きて
青木 忠 空襲の犠牲者への追悼の試みは、因島三庄町7区森神社下にある防空壕前のコンサートで始まった。およそ100人の参加者は、ピアノに合わせて歌うことで追悼の想いを伝えようとした。2002年(平成14年)7月28日のことである。米軍は57年前のその日、2回目の空襲を行い、多くの犠牲者が出た。空襲の時と同じようにとても暑い日であった。...(06/09/23)
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青木忠 わたしは、父から空襲体験を継承することに失敗した。素直にそれができていればこんなに苦労することはなかったのに、大きく空襲の実態に迫ることができたのに、と悔やまれてならない。誰が封印したのか。0歳の身で空襲を体験していながら、その自覚のないまま戦後を生きてきた自分自身ではないのか、とさえ思えてならない。...(06/09/16)
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青木 忠 実は、因島空襲を「封印された空襲」と呼んだのはわたしではない。昨年7月に特集「語り継ぐ空襲」・因島空襲の取材のために因島を訪れたNHK広島放送局・尾道報道室の安井俊樹記者が、わたしの「資料がほとんど残されておらず、実態がよく分らない」という説明に対して使用した言葉であった。 因島図書館に所蔵されている因島市史(右)と日立造船社史...(06/09/09)
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青木 忠 因島に家族とともに帰って10年が経過した平成14年に入って、わたしはようやく因島空襲の調査を始めた。しかしそれは当初、わたしの個人史的色彩の強いものであった。相談を持ちかけた友人に「空襲経験はお前のプライベートな問題」といわれる始末であった。...(06/09/02)
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青木 忠 わたしがまだ東京に住み政治活動や裁判闘争に専念していたころ、おそらく今から20数年前のことであったと思うが、横浜市のキリスト教紅葉坂教会の岸本羊一牧師から数冊の山本周五郎の著作とともに一冊の文庫本を頂いた。「読むといいよ」と牧師が薦めてくれたのは、吉田満著「戦中派の死生観」(文春文庫)であった。...(06/08/26)
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