学生が見た平成の大合併を検証 卒業論文・市町村合併 広島県豊田郡瀬戸田町を事例に【12】

掲載号 06年07月22日号

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 瀬戸田町の区長会が三原市との合併を主張したのには2つの理由がある。まず1つ目が農協である。平成15年10月29日、三原市、竹原市、瀬戸田町、の三農協が合併予備契約に調印し、平成16年3月1日に新しい「三原農協」が誕生した。町行政にさきがける形で、農協が先に三原市と合併したのである。瀬戸田町の住民は、その約4分の1以上の人々が農業に従事している。その高い農業人口に比例するように、区長にも多くの農業経営者がいた。事実、区長会長である杉原氏も農業を営んでいる人物である。つまり、農業に携わる人々にとってみれば、瀬戸田町が三原市と合併するのは至極わかりやすい流れといえる。

 そして2つ目が、「瀬戸田―三原間の架橋構想」である。この架橋構想は、高根島と三原市を橋で結ぼうというもの。橋の建設を実現するためには地元の住民の説得が必要であり、それが可能なのは区長会である。そして、架橋の建設に介入するということは、その過程で必ず大きな利権を得ることができるということなのである。

 これら2つの理由から、区長会は柴田町長とともに三原市との合併を主張して議会を動かし、尾道広域での合併を断らせた。そして、合併を考える会が有権者の50分の1の署名を集めて提出した、合併協議会の設置請求も否決させてしまった。さらには、合併を考える会が再度有権者の6分の1の署名を集めて住民投票に持ち込み、住民の過半数の票を獲得して設置された因島市との合併協議会さえも、反故にさせたのである。ちなみにこのとき、区長会長の杉原氏は、瀬戸田町側の委員として柴田町長とともに合併協議会に参加している。区長会の背景を知った上でこの事実を目の当たりにすると、これでは合併協議が進むはずがないのにも納得できる。

 このようにして三原市との合併を試みた区長会だったが、最終的に瀬戸田町は三原市ではなく、尾道市と合併することになった。

 三原市と合併ができなかった原因として考えられるのは、まず平成14年8月12日の瀬戸田町議会での三原広域合併任意協議会参加のための予算案否決により、三原市と合併する機会を逃したということ、そして平成14年8月20日の市長会議で、瀬戸田―三原間の架橋構想が予算の面で実現不可能と断言されたことだと考えられる。この架橋構想が否定されてからは、三原市は瀬戸田町と積極的に合併しようとする姿勢を見せなくなった。

 三原市としては、観光都市である瀬戸田町と架橋で繋がれば、車を使えば新幹線三原駅から約30分程度で、さらには広島空港からも約1時間程度で瀬戸田町まで行くことができる。そうすれば、観光客の三原駅での下車や広島空港の利用拡大、三原市内での滞在など大きな利益があがると考えられていた。

 しかし、その架橋が実現できないとなると、瀬戸田町へのアクセスはフェリーのみとなり、架橋がある場合と比べると時間の面でも利便性の面でもメリットは小さくなると考え、瀬戸田町との合併を避けようとしたのである。

 また、既述のように、瀬戸田町内の三原派住民も、架橋ができないことを知ってからは明らかに三原市との合併に対する勢いがなくなっていった。この時期に合併を考える会が住民投票の実施を実現するのだが、それ以降も区長会と柴田町長は三原志向を変えなかったため、合併協議会での因島市とのトラブルや、度重なる町長選挙などに至ったのである。

 合併をよりスムーズに、そして合併問題へのより多くの住民参加を、という目的で制定された「市町村の合併の特例に関する法律」における住民発議制度。しかし、実際に合併問題に直面している現場では、この制度は合併をスムーズに進めるどころか、更なる混乱を引き起こした。この混乱をもたらしたのが、「合併協議会を設置させることはできるが、合併をさせることはできない」というこの住民発議制度の限界と、「議会よりも大きな力を持った区長会」という瀬戸田町独特の因習的な文化であった。

 しかしながら、住民が自ら動き、「合併を考える会」という組織を立ち上げ、二度にわたる署名運動の末に合併協議会の設置に成功した、つまり「直接民主主義」をこの町に持ち込んだことによって、こういった地方自治体独特の「ムラ」的な政治形態を浮き彫りにすることができたともいえるのではないだろうか。

(次号に続く)

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