学生が見た平成の大合併を検証 卒業論文・市町村合併 広島県豊田郡瀬戸田町を事例に【11】

掲載号 06年07月15日号

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(b)区長会

 瀬戸田町は、町内が14の区に分けられており、それぞれの区にはその区の代表である「区長」がおり、さらに区長会全体の代表者を一人置いた、15人で成り立つ組織である。これは、瀬戸田町の町議会の議員数と同じである。

 平成11年に尾道市から愛媛県の今治市にかけて、しまなみ海道が建設されたが、その建設計画が持ち上がったとき、議会は住民をうまく説得することができなかった。そのときに住民たちと話をし、区の方向性をまとめあげ、瀬戸田町内におけるしまなみ海道の建設に大きく貢献したのが区長会だったのである。

 このときに区長会は大きな利権を得、これがきっかけで瀬戸田町議会に対する区長会の権限もまた大きくなっていった。その後瀬戸田町は、毎年慣例的に各区に対し総額600万円の行政補助金を交付し、法で定められたわけではない「区長」という役職に対し、それぞれ総額500万円超の区長手当てを支給するようになった。そして、町議会と区長会の権限は逆転し、区長会長が行政の一端を担うようになった。町議会はなにか重要な議事があると、区長会の許可なしにはそれを可決も否決もすることができなくなってしまったのである。

 瀬戸田町の合併問題では、まず、柴田町長が三原市との合併を主張した。これは、柴田町長の地元が高根島であったことなどが大きくかかわっている。そしてその意見に区長会も賛成したのである。

 しかし、ここでひとつの疑問が浮かび上がってくる。瀬戸田町の区長会は、14人中1人か2人を除いてほぼ全員が三原市との合併を主張したのだが、なぜどの地区の区長もそのような主張をしたのだろうか。荻、田高根、宮原、御寺などの生口島南部の地域に住む住民の生活圏域は、既述のとおり因島にある。区長はそれぞれの区の住民の中から選ばれるのであるから、少なくとも4人は因島市との合併を主張してもいいのではないだろうか。

 しかし、そうならないのにはわけがあった。もともと区長会というのは補助金や手当てなどもらえない、ただの町の世話役であった。要するにマンションの管理組合のようなもので、心理的に住民が進んでなろうとはしない役職なのである。それゆえ、瀬戸田町では誰かが区長になると、大抵の場合、その人物がかなりの年数連続して区長を務めることになるのだ。

 区長会の会長である杉原正也氏は、30年以上も区長会長の任にあたっているのである。そうなると、各地区の区長を誰にするかということを決めるのもたやすくなってくる。要は、自分と同じ意見を持つ者、自分に従う者をそれぞれの地区から選出して区長会を構成すれば、居住地域にかかわらず、完全に意思統一がなされた組織ができるのである。

 これが、区長会の意見が割れなかった理由だが、では、なぜ区長会は三原市との合併を望んだのであろうか。

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