伝説の碁打ち 本因坊秀策【6】初心者にもわかる名勝負 歴史に残る「耳赤」エピソードその四

掲載号 06年06月17日号

前の記事: “南寧(ナンメイ)に先遣隊の果てたるにわれは傘寿の春を賜る
次の記事: “学生が見た平成の大合併を検証 卒業論文・市町村合併 広島県豊田郡瀬戸田町を事例に【8】

 弘化元年(1844)秀策16歳。のちの十四世本因坊秀和に対し一、三、五の布石を試み持碁(引き分け)の結果を残している。後世この秀策流黒先手必勝法といわれる布石は四段の免許を受けた15歳のころから試みはじめている。

 徳川家康が制度化した囲碁の家元は四家あって、本因坊、井上、安井、林の一門の家風、棋風があった。しかし、泰平の世に黒船の来航で目を覚まされた江戸後期あたりから時代の様相が変ってきた。年に一度、10月20日に催されていた御城碁に変って旗本や商家のお大尽が主催する碁会がひんぱんに行なわれるようになった。

 そこに招かれるのが太田雄蔵など人気棋士たち。この太田雄蔵は江戸商家の生れ。安井家の門人で、川原卯之助―良輔といい、七段まで進んだ「天保四傑」の一人。浅草蔵前に住んだ。

 白面朱唇、眉秀にして瞳涼しく漆黒の頭髪豊かに結びたる好男子なり―と、伝えられ、粋(いき)を似て任じ―とあるからよほどの伊達男だったのだろう。それに加え碁が強いからスター棋士としてもてはやされたことはいうまでもない。その太田雄蔵にこんなエピソードが残っている。

天保四傑の一人 伊達男太田雄蔵

 座隠談叢という囲碁の史書がある。安藤如意が明治37年刊行した囲碁辞典とも言える内容で、その書のなかに

「古来、碁家の七段位に至れば、公儀より御扶持を受け、剃髪して僧形となり、御城碁を勤むるを例とせり、是れ碁家に取りては名誉第一の事に属して各競うて之を得んとする」
というのだが、太田雄蔵は七段昇格を断わっている、とある。

 伊達男にとって、頭を丸めて僧侶の姿になるのが、いやであった心境を

「御扶持は望む所に非ず、御城碁に列し得ざるも亦可なり。唯、願わくば剃髪せずして七段得ん」
と述べている。

 少年棋士秀策より22歳年長の大先輩である太田雄蔵との対戦棋譜が多く残っているのはなぜだろうか。当然のことながら碁会のメイン対局として手合いをまとめる者がいた。安井家の実力ナンバーワンの太田雄蔵と本因坊家預り弟子で天才少年の呼び声高い安田秀策の組み合わせは興味深い。雄蔵にとっては、かなりの謝礼が必要だが、部屋住みの秀策は出すことはない。「先の差(二段)があれば師弟の差」であるから、打ってもらうのに礼がいるほどである。雄蔵の側にとっては、坊門の麒麟児秀策の将来への関心が高かったことも十分に想像できる。

 こうして江戸末期は真剣味のある勝負から娯楽の碁まで多彩に行なわれた。

E

トラックバック