南寧(ナンメイ)に先遣隊の果てたるにわれは傘寿の春を賜る

掲載号 06年06月17日号

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わが隊と替りて発ちし先遣隊に計りしれざり人の生死は

村井 計巳

 広い中国人民共和国という地図を広げてようやくに南寧という地名を探すことが出来た、今はカタカナでナンニンとある。このときの作者(村井さん)は台湾に近い福州の地にいた。南寧は、香港(ホンコン)よりずうっと南寄りのベトナム国境に近いところである。その時の戦況がどのようになっていたのか知るよしもないが、昭和18年、19年というのは物資も輸送力もかなり欠乏を来たしていたことと思われる。

 村井さんは、しみじみと語られていた。人間には運と不運が付きまとっていて、これではいかんと、どんなにあがいても、どうにもならんものがある。

「私の所属していた大隊長はかなりの年配で温厚な人だった。いずれの大隊が先遣隊で行くかということになり、順序から見れば私の隊であったのが、他に血気にはやる隊長がいて先遣隊を譲ったのだということを聞いた。ここが運の分れ目だったんだよ」

と自分で頷きながら語っていた。先遣隊は歩兵、砲兵、工兵、輜重兵などの大隊であった。陸路では戦線へは行かれないからか、輸送船団を編成しての出動であったようだ。その航行中にトンキン湾の入口付近にさしかかった時に、連合軍の潜水艦に発見され魚雷による猛攻撃を受けてあえなく潰滅してしまって、以後の後続部隊には、出動の話はなかったという

 先遣隊で私が行っていたら24歳の戦死になっていたことだろう。本当に運がよかったのかな。今このように満80歳の春まで生命を賜り、妻や子や孫たちに囲まれ祝われている幸せを噛みしめているのだが。

(池田友幸)

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