脚光をあびる本因坊秀策

掲載号 06年03月18日号

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フリーライター 村上幹郎(3月12日中国新聞日曜エッセイから転載)

 幕末の天才棋士、本因坊秀策(1829―62)にあやかって囲碁でまちおこしをしようと「市技」という耳慣れない言葉が広島県因島で誕生。今年1月10日、尾道市への編入合併でこの試みがそっくり新市へ継承された。

「市技」を尾道が継承

 村上水軍の血を引く造船の島から世界遺産登録にふさわしいまちづくりを目指す尾道市が囲碁文化を抱え込むことになったわけで、手さぐりの基本構想や市民と行政の役割分担などにとどまっていることも隠せないようだ。

 私が新聞社を退社して故郷の因島にUターンしたのは1977年だから約30年前のことである。囲碁好きの遠来の友人を本因坊秀策生誕の地へ案内するためタクシーに乗った。運転手は行く先が分らないという。私も初めての案内で、近くの交番に寄って尋ねることにした。駐在さんも知らないという。恥をかいたのは私の方であった。

 このことが奇縁となって秀策像を求める私のライフワークが始まり庚午一生(こうごいっせい)というペンネームで碁聖本因坊秀策偉人伝「虎次郎は行く」上・中・下巻を上梓した。還暦に初稿、脱稿は古稀を迎えていたから10年間かかっていたことになる。

 歴史小説を書くにあたって想いおこすことは故司馬遼太郎先輩の言葉である。「できるだけ正確に。なぜなら歴史は作家の私有物でないということだ」。

 そのあとで「だがなあ、三割くらいのフィクションがからんでないと読者にとって面白くない。それ以上、史実を曲げるとつまらなくなってしまう」と、つけ加える。

 書くものによっては、歴史上の実名が出てくる。それがたまたま読者の先祖であったりするし「もっと知りたい」という旨の手紙をいただく。だが、返事の出しようがない場合が多い。筆者はそういうつもりで取材、調査していないから当惑せざるをえない。

殿堂入りした本因坊秀策

 日本棋院創立80周年記念事業として2004年11月15日オープンした囲碁殿堂資料館。第一回の栄えある殿堂入りを果したのは、囲碁を「国技」に高めた天下人徳川家康、近世囲碁史の開祖初代本因坊算砂、後世碁聖と仰がれる島根県大田市仁摩町出身の四世道策と、広島県尾道市因島が輩出した十四世跡目秀策の4人。徳川家18代当主徳川恒孝(つねなり)氏も道策生家山﨑家13代目当主山﨑尚志(たかし)氏も「当主は続いていますが囲碁は継いでいません」と問いかけをかわす。

 殿堂入りを前にして、一躍有名になったのが秀策。アニメや漫画雑誌に登場。囲碁に縁が薄かった子供やご婦人層の囲碁ブームに火をつけた「ヒカルの碁」の原作者(絵コンテ)ほったゆみさん。全国各地の囲碁会場は少年少女の初心者が急増、秀策生誕の地も家族連れの参観者が増えた。市は駐車場にトイレを新築、顕彰碑から墓地までの道しるべを立てるなど対応に追われた。

 1800万部を突破、大ヒットした原作者のほったさんは「ご迷惑をかけて申しわけありません」ときわめて謙虚。

ヒカルの碁の実在のモデル

 ヒカルの碁の登場人物は平安時代の天才棋士藤原佐為もみんな架空の人物。秀策さんだけが実在のモデルという。多くのプロ棋士は「秀策流を盤上に並べると石が生き生きしてくる。うまいな、美しいな。まだ見ぬ一手があるのかも」と賞賛する。こんな世界的な秀策さんを地元民はもっと自慢していいはずだ。

 むらかみ・みきお 1930年生まれ。広島県尾道市因島田熊町出身。旧制三原中学・因島高、同志社大学経済学部卒。1953年産経新聞大阪本社入社、1977年同社退社。碁聖閣副館長。著書に碁聖本因坊秀策伝「虎次郎は行く」など。

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