海賊・自由と仲間と家族と【14】

掲載号 05年05月14日号

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第二次 木津川河口の合戦 鉄甲戦艦登場

 信長の鉄甲戦艦。信長は、九鬼水軍 九鬼嘉隆(よしたか)に命じて、海賊の持つ最大の船 安宅船に、鉄を貼り付けた船を6艘作らせた。『秀吉と武吉 目を上げれば海』では、この船を「城」、そして「化物」と描写されている。そう、鉄板張りのあんな重い船が動き回れるわけがないのである。海上に浮かぶ巨大な城。火器を跳ね返し、上から攻撃を仕掛ける、動きの鈍い化物。この鉄張りの船を前に、村上水軍は退却を余儀なくされた。

1578年(天正6年)第二次木津川河口の合戦。村上水軍博物館蔵・香川元太郎画

 この歴史は、よく信長の強さや天才ぶりを示す話として、また村上水軍の大敗の歴史として描かれることが多い。しかし、これは決して海賊の弱さを表す戦いではない。死ぬまで戦え、ではない。負けなら逃げろ。陸の武士から見れば格好悪いだろう。しかし、海では違う。本当に大切なものを守るためには、簡単に死んではならない、必死に生きて守り抜く!これが海賊の生き方なのだ。本当に格好良い生き方だ。

七、海賊の終焉 自由が奪われたとき

 豊臣秀吉の『海賊禁止令』。「海の刀狩」とも言われる。秀吉にとって、全国を統一するため、貿易を何者にも妨げられないようにするためには、瀬戸内の海賊衆が邪魔だった。海賊たちは、日本の生命線で力を持っている上に、誰にも仕えようとしない。そんな海賊たちは、秀吉にとって、邪魔者であり、大きな脅威でもあった。そして海賊、特に村上水軍を取り押さえるために秀吉が、『刀狩令』と同日付(天正年7月8日)で出したのが、この『海賊禁止令』である。その中身を見てみよう。

一 諸国海上において賊船の儀、堅く停止(ちょうじ)の処、今度備後伊予両国の間、伊津喜嶋にて、盗船仕の族、これあるの由、聞食され曲事(くせごと)ニ思食事、

一 国々津々船頭猟師、いづれも舟つかひ候もの、其所の地頭代官として、速に相改、向後聊(いささか)以って海賊仕るまじき由、誓紙申付、連判をさせ、其国主とりあつめ上げ申すべき事、

一 自今以後、給人領主油断致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所、知行以下末代召上らるべき事、右条々堅く申付くべし、若違背の族これあるにおいては、忽厳科に処すべき者也、

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