日の丸の小旗を振りて父送る小学四年の駅思い出す

掲載号 04年12月25日号

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松井嘉壽子

 作者の現在の年齢から推定すると、小学校の四年生というと、日中戦争の勃発した年(昭和十二年)かその翌年あたりではないだろうか。この頃は戦争とは言っても、再び古里には生きては還れないという悲愴感はそれほどにはなかったが、昭和十八年ごろからは、町や村に次々と白木の箱(戦死者の遺骨)が還って来るようになった。

 この歌のような駅頭で日の丸の旗を打ち振りながら出征兵士を送る情景は、戦中戦前のドラマ映画の一場面として必ず出ている別離の情景である。愛する恋人・夫・父・子・兄弟・友人と征途につく者、残る者である。神宮外苑の雨の中を行進する学徒出陣の映像はほんの一瞬ではあるが、わが子を恋人を見た人も何人かいるだろう。

 当時は在郷軍人という制度があって、一定の訓練期間(軍隊生活)を終え除隊した者たちが、平和時は民間で仕事に就き、国として事変や戦争が起れば国防に徴兵されるのである。この男たちのことを予備役兵、帰休兵とも言われていて、赤紙一枚で連れていかれるとはこの事である。二十歳になって徴兵検査を受けて現役入隊をしてそのまま戦地に派兵とは異なっている。

 「千切れる程に振った旗」・「振ったあの日の日の丸の」というように駅頭の旗の波が目の裏に焼きついているのである。同じように出征兵士を小旗を振って送る場面でも、因島では、海辺や桟橋からである。桟橋の付いてないところは、伝馬船に乗せられて巡航船に乗り移っていた。その船は港の沖を汽笛を鳴らしながら三回廻ってくれた。デッキに駈け上がり力の限り日の丸の旗を振っていた。まさに鬼の眼にも涙の一と時であった。

(池田友幸)

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