幕末本因坊伝【21】日本棋院囲碁殿堂資料館(2)徳川家康と十八代恒孝さま

掲載号 04年12月04日号

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庚午 一生

 閑話休題 11月15日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で徳川家十八代目に当たる徳川恒孝さんに会うことができた。戴いた名刺には日本郵船株式会社顧問、財団法人徳川記念財団理事長の肩書きが記されていた。

―お名前は、なんと読めばよろしいのでしょうか。

 恒孝(つねなり)でございます。日本中で親族を除いて「つねなり」と読んだひとが、いまだに一人もいないようです―と、にっこり相好をくずす。

 初代家康公から数えると十八代目に当たる人。世が世なら徳川将軍という訳である。背が高く堂々とした風格と風貌はどこか家康公に似ている。それをいうと、家康公に会ったことがあるのか―と尋ねられると答えようがない。しかし、殿堂入りした家康公のレリーフからはそれがうかがえることはたしかである。
幼いころ悪戯をすると周りの大人から「なり様、城が落ちます」と叱られたことを11月9日(火)出演の「徹子の部屋」で明し、黒柳を驚かせていたシーンを思い出した。最近まで日本郵船(株)の副社長を務めていた徳川さんだが、サラリーマン生活に区切りをつけ今まで手付かずの状態で倉庫に放置されていた絵画、工芸品、着物、古文書など保護・保管する作業の取り組みを始めたという。

 将軍家に伝わるお宝によって二百六十五年間の平和を維持することに成功した江戸時代について考察。時の為政者たちが平和を維持するために駆使した知恵が見えてくるだろうという。

囲碁を「国技」に高めた天下人

 ところで、殿堂入りした徳川家康だが、天文十一年(1542)年、三河国(静岡県)岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた。幼名は竹千代。幼少のころから今川義元の人質として過ごし、永禄一年(1558)年、三河寺部城主・鈴木重教の攻略戦に臨み、その後、多くの戦塵をくぐり抜けてきた。慶長五年( 600)年9月1日、家康を総大将とする東軍は関ケ原の合戦で大勝。事実上の天下取りを果たした3年後に江戸を開府して八百八町繁栄の基盤を固め文化、芸能を推奨、二百六十年にわたる平和をもたらした。

 ところで、家康が囲碁に接した時期は不明である。記録上では十一歳のとき新城城主、奥平九八郎信昌を介して本因坊算砂と天正十五年(1587)年に出会っている。さらに五十一歳のころからの囲碁に関する記事が増え、宴席に囲碁・将棋の棋士を招いている。

 家康のねらいは対局を通して人物評定に意を注ぎ、諸将の動向を探り、碁友、碁敵が心を通じてあえる味方になるなど遠大な「布石構想」になると考えていたのだろうと分析する人もいる。

 そうした背景もあって家康は碁家四家元を保護するとともに二百三十年にわたる御城碁制度によって囲碁を日本の国技まで高めた天下人として殿堂入りは異論をはさむ余地はなかったであろう。

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