天皇を尊敬する哲学【3】三種の神器と白銅鏡

掲載号 04年06月01日号

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庚午 一生

 お宮さんの拝殿の正面に丸い大きな鏡が鎮座されている。故桑原先生に「何を意味しているのでしょうか」と、おそるおそる愚問を投げかけた。すると「鏡はうそをつかない。そのままの姿を映し出してくれる。清め明(あか)き心も穢(きたな)き黒き心も」と、さりげなくおさとしになり、私の顔をのぞき込むようにニコリと笑われた。

 三種の神器については戦前の歴史教育の中でしっかりと、たたき込まれた。万世一系の天皇位を継承する三つの宝物がある。それは八咫鏡(やまたのかがみ)天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)であり故桑原先生にうかがいを立てたのはヤマタノ鏡のことであった。

 この鏡について、記紀神話によれば天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が作ったという。それを大神がニニギノミコトに授けたといわれ、伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎され、その模造の神鏡が宮中の賢所(かしこどころ)に奉安されている。

 その昔、白銅鏡に対する信仰は清い心も、いやしい心も映し出されるということと無関係であると思えない。書紀巻一の一書によれば天照大神の出生は白銅鏡の化身の様なもので、天孫降臨のときも古事記によれば「この鏡は我が御魂(みたま)として吾がみ前をいつくがごと、いつきまつれ」ということから今も伊勢の皇大神宮に鎮座まします訳である。明鏡はすべてのものを明るく写し、それ自体は変らない。清き明き心を象徴するものとしてはこれ以上のものはないだろう。

 この素朴な「清き明き心」が大和民族のめざす「徳」であるが、大陸から入って来た儒教に接して、それに理論的筋道を得て仏教を加え哲学的深さを加えた。それも全面的に取り入れたのでなく、儒教や中国文明のよいところ、都合のいいところだけであった。儒仏のときも同様である。鏡は物を写してもこれを拘泥(こうでい=こだわる)したり拘束することはないこの清き明き心の伝統は遠き祖先から現代に至るまで続いている。

 万世一系は血統も含むが、本筋は道統の嫡々相承(正妻のよつぎ)を意味するが「万世一系は単なる御血統の一系でなくしても、同時に大御心の一系である」という考えに賛同したい。そして、儒仏の入る以前においては、我が日本民族は「清き明き心」を以って道義の根本としていた。それが白銅鏡に対する信仰であったといえるだろう。

村上幹郎

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