過ぎゆけば夏の暑さも忘れたり忘れることもありがたきかな

掲載号 06年09月16日号

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村上 宗子

 夏になれば口ぐせのように「あついね、あついね、今年は特別あつい」、と言いあっていたのである。事実、今年の暑さは観測が始まって以来とか記録破りとか言われていた。よくよく私たちの生活を考えてみれば、暑い季節と寒い時があってこそ、春夏秋冬の美しさ、人間生活の日々の楽しさが倍加するのである。

 この歌の意味は、「暑さ寒さも彼岸まで」という慣用句にもあるように、秋の彼岸を境に暑さも衰えてしのぎ易くなった。あれほどに暑く肩で息でもするかのような熱気も、過ぎ去ってしまえば体の方は正直なもので「もう重ね着がよいのう」、と言っているのである。ここで似たような言葉だが、もう一つ慣用句を紹介しよう。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」もあって、これには意味がよく似ているともとれないことはないが、こちらは人生訓の解釈も出来る。諺(ことわざ)には裏表があって幅があるように忘れることはありがたいであり、人間いかに生きるかのこころの有りようにもとれる。

 この歌のポイントである「忘れることもありがたきかな」は、石川啄木の「一握の砂」の歌集の中に

ふるさとの山に向ひて
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな
のように終句が似てはいるが、もちろん作者は承知の上であっけらかんと使っており、「人生万事このようになればいいね」と言っている。毎日の生活の中にも出来ごとの重いも軽いもあり、また、いつまでもぐちぐちと尾を引くものもあるが「忘れることはありがたきかな」この歌のように心の方向転換は出来るのである。

(池田友幸)

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